行き詰まっていた神田橋さんの「崩壊」(いい意味)をすすめた、精神療法家パデル先生の患者に対する姿勢。
「先生は常に患者の内側(in)の世界を大切にされた。そしてそれを正そうとするのではなく、内側の歪みの視点から見えてくる外界像を受け入れ・ともに遊び、inの世界と患者の行為や外部認識との一致や整合性を見出そうとされた。」神田橋條治 『発想の航跡2』
神田橋さんが崩壊という言葉で表していることに対して、僕は「破綻」という言葉を使っている。あるシステムがそのシステムであるままで、再帰不可能な、完全な自己崩壊をおこすイメージ。崩壊というとただ壊れるイメージなのだけど、破綻というと自身のうちにももっていた自律性がおしすすめられた結果の必然というイメージがある。
本来システムは自分を守るものなのに、そのシステムがそのシステムであることによって、むしろ崩壊が全体にまんべんなく行き渡る感じ。エネルギーが使い尽くされてなくなる感じもある。あと、大きな現象にも、ごく小さな現象にも使いやすい。
固まったもの、関係性を揺るがし、壊していくアプローチとして、こちらが直接働きかけ壊すのではなく、そこにあるもの自身の力を使い、成り立たなくさせていく。
パデル先生の態度は、老いと演劇のワークショップで菅原さんが認知症の老人と関わるときの態度と通じていると思う。
なぜ人が病から回復したり、あるいは逆に一旦病になることによって、より生きやすい身体をつくるのか。自然治癒力という言葉が使われる。もともと生体には自然治癒力が備わっていてそれが発揮されるからだと。
自然治癒力とは何なのか。僕はそれは、自律的な気の循環のようなものであって、それが結果として自己調整機能として働くからではないかと思っている。どこかに何か、気詰まりを起こす部分があったり、あるいは気の流れに抵抗するような部分があるとする。
気はずっと循環しているので、その部位から絶えず違和や苦痛のメッセージがやってくる。生体はそれに対応せざるを得ない。気は、水が自ら進む道をつくるように、そこに流れる通路をつくろうとする。その力は、そこに場所がなければ無理にでも作ろうとする。それが現在の身体の状況の対応可能な範囲を超えていれば、病となる。流れを邪魔するものを何であれ一掃しようとする働きになるためだ。だが、同時にある程度順調な流れに回復すれば、その流れ自体が、より気の流れがよい状態へと、自分でどんどん開拓し、調整していく。
気の流れがあるところが生命が芽生えるところ。潜在的にあったものが現れ、活性化するところだ。だから破綻するのも気の流れのためであり、同時に破綻した後のところにかつてと違った生態系がたちあがってくるのも、そこに絶え間ない気の流れがあるためだと思っている。