政治的なことに関わらないこと、そのように思われる言動をしないことが今でも一種のステータスとしてあるのだと思う。そう思う<仲間>から蔑視されたくないのだと思う。その<仲間>のなかで生きているのだけど、その<仲間>は、本当に自分のためを思ってくれて、いざとなったときに助けてくれる仲間だろうか。
自分を透明にしてすましてみせることが、混乱して小さく縮こまった自分の惨めさを外から隠す、せめてもの見栄なのだろうか。てがかりがなくて手も足もでないのではなくて、やらないのだと合理化することが無力な自分を自立した主体として感じさせる、生きるための技法なのか。
政治的なことに関わらないと言明すること、あるいは口に出さなくてもそのような身振りをすることは、政治的ではないだろうか。そのようにして想定する誰かに承認してもらおうとすること、自分のことでいっぱいで意図していなくても、周りに対して政治的なことに触れるのは異質者なのだという抑圧の空気を伝えることは、政治的ではないだろうか。
沈黙すること、「何もしない」ことによって、政治的でなくなることはできない。それは政治でしかない。何をしても、何をしなくてもそれは全て政治的なのだ。
シニカルになり、閉じた自意識を高揚させて全能感にひたるのも、その人が生きていくための試行錯誤だろう。それが世界に働きかけることができない自身に対する不信となり、もっている力を目減りさせていくとしても。
生きようとすることしかできない。
無力でも、惨めでも、異質になっても、抑圧者となっても、持っている手立てが破綻的であっても、生きようとすることしかできない。手立てが全くの勘違いや誤りであっても、誰もが回復に向かおうとしかしていない。
諦めたらどうかと思う。降伏したらどうかと思う。
回復にしか向かうことができないという現実に対して。
あるべきことや人の言うことに盲従するのではない。混乱し、いびつで、みじめな、こごまりとしての閉じた自分が、回復していくための環境、回復していくために必要な尊厳をつくっていけばいい。他でもないこの自分が生きるということに責任をもつ。自分に対して提供しなければいけないものに気づく。その責任に気づく。ただそれを進めていくときに、世界との関わりが開けてくる。
4月5日に下記の催しを行います。
平日ですが、ご都合よろしければどうぞお申し込みください。
野口体操と聞き書き
花崎 攝 ワークショップ
2013年4月5日(金)
参加費:500円 場所:ちいさな学校 鞍馬口
問い合わせ080-3788-7036 小池
「からだの動きはことばであり、 欲張りな春の一日を
ことばはからだの動きである」 ごいっしょしませんか?
野口体操をはじめた野口三千三は言います
「ことばを手がかりに動いたり、 動きからことばが生まれたりする。」
野口体操の世界に触れてみませんか?
そして、ひとに話をきくことは
なかなか 相当おもしろい
きいた話を 書き起して
聞き書きする
声に出して読んでみる
すると 話し手と聞き手の間で話されたことが
もう少し多くの人に 渡される
そこからうまれる さらなる対話は生まれるか… 北区新御霊口町 285-151
プログラム*時間は目安です。
10:00 野口体操 午前中 ゆるゆる野口体操を試してみる
12:00 お昼休み
13:00 声を出す
13:30 ミニ聞き書きワークショップ1 午後 ミニ聞き書きワークショップ
テーマ「ふるさと(仮)」
15:00 休憩(おやつ)
15:20 聞き書きを表現する(読む、動く、描く、歌う…)
16:30 ミニ発表
ちょっとふりかえり 夜は 番外 食事会
17:00 食事会の準備 ワリカンで春鍋しましょ
19:00 食事会
花崎 攝 http://www.edg.or.jp/ 劇団黒テントでアジアの民衆演劇の手法に出会う。
演劇デザインギルド所属 1994~1995年渡米、ニュージャージー州プリンストンの地地域劇団、クリエイ
俳優・演出・ワークショップ進行役 ティブ・シアターで活動。
武蔵野美術大学非常勤講師 ヴァイオラ・スポーリンなどの即興劇の手法、クリエイティブ・ドラマにふれる。野口体操講師 帰国後黒テントを離れ、各地で演劇ワークショップと公演活動を行う。
とくに子どもと女性、障碍のある人とのワークショップを中心に演劇を社会的に
より開かれた表現行為として活かすこと、演劇の成立する関係の在り方を探っている。課題検討討論劇ともいうべきフォーラム・シアターも実践中。2010~2011年にかけてロンドン滞在。ロンドン大学ゴールドスミス校クロスセクトラル&コミュニティー・アーツコースにて修士号取得。アジア・ミーツ・アジア運営委員。
■はじめに
ブックレビューは、紹介する本を媒体として、思いついたことや、関心のあることを話したりすることを意図した集まりです。本の内容を正確に理解したり、筆者の主張を受け入れることよりも、本の紹介をきっかけに、それぞれに考えたり整理したりするほうがいいかと思っていますので、質問や思ったことはその場でいってもらって結構です。
■この本を選んだ理由
もともと名前はきいたことがあった本で、知り合いの方が内容が自分にあっていて受け入れやすかったとの話しと、京都にもあるギークハウスというネットやプログラミングなどが好きな人が集まるシェアハウスの発起人ということで、関心もより出て読もうと思いました。
■本書の概要
筆者がなぜ現在の暮らしをするようになったかという経緯、インターネットやシェアハウスをつかったネットワークのなかで、著者が発見したり工夫したりしている生活の成り立たせ方、著者からみた社会のあり方への提言やこの社会の常識に対して、知識として適切な距離をもつような書籍などの紹介がされている。
■本書の引用
「だるい。めんどくさい。働きたくない。小さい頃からずっとそう思っていた。「働かないと生きていけない」ということにどうしても納得がいかなかった。」3
「いや、毎日寝たいだけ寝ていても生きていける道がどこかにあるはずだ、と理由もなく信じていた」3
「今、33歳の僕は、28歳のときに、「インターネットさえあればニートでも楽しく生きていられるんじゃないか?」と思い立って会社員を辞めて、それからはずっと定職に就かずにぶらぶらと暮らしている。働いていたときに貯めていた貯金は二年で尽きて、今はネット経由で得られる僅かな収入を頼りに暮らしている。」4
「この本は、かつての僕と同じように、「人間はちゃんと会社に勤めて真面目に働いて結婚して幸せな家庭を作るのが当たり前の生き方だ」という社会のルールにうまく適応できなくて、しんどい思いをしている人が、いろんな生き方があると知ることで少しでも楽になればいいな、と思って書いたものだ。」4
→ ニートの一日
「特に退屈は感じていない。普通に生活をしているだけで一日が終わるというか、ご飯を食べたりマンガを読んだり昼寝をしたりインターネットをしたり、なんとなく過ごしているといつの間にか何日も過ぎている。自分のやりたいように生活をしていると普通に生活するだけで精一杯で働いている時間の余裕なんてない感じがする」26
→ニートは孤独か?
「自信を持って、全く寂しくない、と答えられる。むしろ仕事を辞めてからのほうが知り合いも友達も増えたくらいだ」29
「基本的に起きている時間の大部分はインターネットを見ているんだけど、ネットを見ればどんな時間でも知り合いや友達が何十人とそこにいる。そうした知り合いとチャットやツイッターやフェイスブックやブログで毎日喋ったりしているし、気が向いたらネット経由で、「飯食いに行こう」とか「ゲームをやろう」とか誘って実際に会うこともしょっちゅうある」29
「ネットだけではなく現実世界でも、僕はギークハウスと名づけたパソコンやネットが好きな人が集まって暮らすシェアハウスに住んでいるので、同居人や遊びに来る人たちと毎日顔を会わせたり喋ったりしている。」
「学校に行っていたり、会社に努めていたときも毎日人に会っていたけど、そのときは特に好きでもない人や気の合わない人にも会って会話しないといけなかった。」30
「僕は他人と長時間一緒にいると疲れるので、会社や学校に行っているとそんなに親しくもない他人と一緒にいることで対人エネルギーを使い果たしてしまい、仕事が終わった後や休日には本当に会いたい人と会う気力が尽きてしまっていて悔しかったりした」31
→ 学校
「学校になんて行かずにずっと部屋で一人で本でも読んでいたかった。」32
「学校にいる人たちは全員が自分とは違う人種に思えた。」32
「しかし学校を辞めて働くのはもっと嫌だったし、小学校→中学校→高校という一般的なレールから外れた生き方ができるほどの行動力もやりたいこともお金も人脈も当時の僕にはなかったので、とりあえずは嫌々ながら学校に通って、学校にいる時間の大部分を寝ているか本を読んでいるかでごまかしていた。」33
「暇潰しにゲーム感覚でもくもくと受験勉強をやっていたら偏差値が上がってしまった」
「安定したレールに乗っていくには、コミュニケーション能力とかバイタリティとか技術力とか、普通に人間っぽい能力が必要になってくる。社交性もないし、労働意欲もないし技術もない僕には、大学を出た後に行くあてはなかった」35
→ 会社
「計画通りにその職場はかなり暇だった。一日二時間か、三時間もあれば仕事は終わるし、あとはパソコンに向かって仕事をするふりをしながらインターネットをしていればいい。いわゆる社内ニートというやつだった」37 →それでも苦痛。決まった時間に起きること、通勤ラッシュの時間帯に出勤しないといけない、一日八時間ぐらい椅子に座ってないといけない。一日二、三時間でも興味を持てないことを作業するのは嫌で仕方がなかった。
→ インターネットとの出会い
2002年からブログを書くようになった。「顔も知らない人がコメントを付けてくれたりして、それはとても嬉しかった。」42
「喋るのが苦手で、人と対面すると緊張したりうまく思っていることを説明できなかったりして人と仲良くなるのが下手だったんだけど、ネットだと相手を直接前にしないので緊張しないし、文章だと喋るのと違って言いたいことを何回も推敲できるので苦手意識を持たずにコミュニケーションすることができた」42→友達がたくさんできた。
→ ツイッター
ブログに比べてコミュニケーションの敷居が低くて人とつながりやすい。知らない面白そうな人に声をかけて仲良くなるのも気軽にできた。→ツイッターがあれば会社を辞めても孤独になったり、社会から孤立しないでいられるのではと思うように。
→プログラミング
プログラミングを学んで「村上春樹風に語るスレジェネレーター」というジョークサイトを開発。人気があった。プログラミングでいろいろ作ってネットで公開していたら、お金も稼げるようになるかもしれないし、仕事を辞めても困らないかもしれない。
→ 仕事を辞めてもなんとかなりそうと思える3つの基準が満たされる
1 人とのつながり →会社に行かなくてもツイッターやブログでなんとかなりそう。
2 暇潰しにやること →手持ち無沙汰も虚しくなる。ちょっとくらい何かを生産したりアウトプットするような作業があったほうが毎日楽しくすごせる。→ブログ、プログラミング
で。
3 最低限のお金 →ブログやウェブサービスで月5千円の収入があった。もっとプログラムを覚えて本格的にサイトを作ったら、月に十数万も可能か?→ その後実際には7、8万程度に落ち着く。
→ ネットの面白そうな人と会ったり遊んだりするために東京へ。すでに知り合いがたくさんいたので不安はなし。登山用ザックを購入し、一週間の着替えとノートパソコンとモバイルルータをつめこんで、18切符で東京へ。その後しばらくはゲストハウスや安宿を点々と。
→ インターネットは、それほど頻繁には会わない友人や知人、会ったことはあるが、それほど親しくない人や一方的にこっちを知っている人などと、ゆるく広くつながりを維持できる。どんな人でもそういう知り合いは数十人から百数十人いるんじゃないか。54
→ツイッターで呼びかけたり、つぶやけば、誰かがご飯に一緒にいってくれたり、生活に必要な物資やお金までカンパしてくれることがある。リアルタイムでオープンにコミュニケーションできるツールとしてのツイッター。ツイッターによって、会っていない相手の日常や性格もわかりやすい。ネットからリアルをある程度把握できるようになりリアルでも会いやすい。63
生計
→毎年の収入は80万ぐらい。シェアハウスの管理人をすることで家賃をやすくすませ、食事は自炊中心。飲み会は家で。
→お金を稼ぐために作業をするというのがメインになるととたんにやる気が萎えてしまうので、大体は自分の作りたいものを作って、そこにおまけ程度に広告を貼るという感じ。68
→せどり。ブックオフで見つけた古本を転売する。1日1、2時間の仕事量で月に4、5万
ぐらいの収入に。時間の自由がきくし、どうせブックオフに立ち読みにいくし。最近はだるくなったがお金が必要になったらこまめにブックオフを巡ると思う。72
インターネットという新しい自然
→サイト作りもせどりも、時間を自分の自由につかえ、人と会わなくていいという2つの点を満たしていた。感覚として、山に入っていって栗でも拾ってきているような感じ。サイトをつくって広告をハルのは、川に罠を仕掛けて放置して、一日一回見に行くと魚が入っているような感じ。73
ネットでお金をもらう
→ 今お金に困っててヤバい、とか言うと、お金や支援物資が届くことも。アマゾンのほしいものリストに登録しておくと、その品物を贈ってくれることも。自分も500円と1000円とか、振り込む。そういう文化が定着してほしいのもあり、それが面白いのもあり。「「お金がないと生きていけない」「お金を稼ぐには働かなければならない」という事実に納得がいってない。憎悪しているといってもいい。」86、ということも。
東京には何でもある。インターネットは需要と供給をマッチングさせる。所有よりシェアのほうがローコストで身軽になる。ネットが更に発達し、流通が進化すれば、所有は必要なくなるのでは。94 →著者の社会的提言
ニートが成り立つ仕組み
→弱いものこそ集まろう。周りに相手をしてくれる人がいるようにコミュニティをつくる。ブログでしょっちゅう「働きたくない」と書いているとそういう人が集まるようになった。そういう人たちといると社会の常識に対して被害を受けにくい。ニートとフリーランスはそれほど違いがない。99 集まり、ネットワークができると急な手伝いやバイトの情報なども循環するようになる。ニートがいると留守番や荷物受け取りなどにも適する。一家に一ニート。
ギークハウスのはじまり
昔いた寮のような適度な距離に人がいる場所がほしかった。それならば自分でつくろうと思い立つ。「こういうコンセプトのギークハウスという家を作ってみたい」という記事を書いたら知り合いが、3LDKの空き部屋を紹介してくれる。→三人で住む。114
ツイッターとギークハウスの共通点 →「ある程度のオープンな空間で、それぞれが自分の好きなことをしながらもなんとなく共通の雰囲気を共有して、ときどき気が向いたら会話したりもできるという、ゆるいつながりの中にあると思う」119
「僕はいちいち人と喋ったり人と交渉するのが嫌なのでシステムをつくった」121
著者のおすすめの本・マンガ紹介
保坂和志「プレーンソング」、あずまきよひこ『よつばと!』、よしながふみ『きのう何食べた?』、うえやまとち『クッキングパパ』、真鍋昌平『闇金ウシジマくん』、西原理恵子『この世で一番大事な『カネ』の話』、工藤啓『「ニート」支援マニュアル』、中島義道『働くことがイヤな人のための本』ほか
30歳で著者がたどり着いた結論
「人はそれぞれ性質が違うし向いている場所も違う」
「世間で一般的とされているルールや生き方は、それが特に苦痛でない多数派の人向けのルールにすぎない
「努力が足りないのではなく適性が違うということを考えるべき」
「世間で一般的なルールに従わなくても、なんとか死なずに生きて、たまに谷か楽しいことがあればそれでいいんじゃないか」132、133
「だるい」を大切に
「「だるい」は、自分がやりたくないこと、自分が本当はやらなくてもいいことを見分ける重要な感覚だ」153
■この本を読んで
この本を読んでまず思ったのは、著者はとてもしっかりしているということだった。自分と現実をみた上での選択や工夫をしていて、自分がどのように苦痛であっても、また映画がみれないという体質上の個性があっても、だからといって、学校をやめたり、会社をやめず、先行きにある程度の確信を持ってから、行動を決めている。なぜ働かなければいけないか、という疑問は小さい頃からもっていたものであり、著者は自分の個性と「社会」との折り合いの悪さがありながら、自分という軸を失っていないということが彼の着実さになっていると思った。またインターネットという世界との関わりにおいて、まるっきり自分の周りだけではない大きな世界との交流によって、著者自身も変化し、導かれている印象を受ける。ネットを新しい自然というのもうなずける。ニート、ひきこもりといえば世界との関わりを失い、
それで自分の必要なもの、自分を先に進めるもの、自分の健康さ、抵抗力などを維持したりすることができなくなりそうだが、著者は世界との関わり、自然との関わりを失っていない。また著者が自分自身の社会的ポジション、発信者、助ける人、というような公共的な役割を自認しているようになっていくことも面白いと思った。著者は自分の特徴的な個性を引き受け、その切実さから逃げずに腰を据えている。だるい、という感覚をもっと大切にしていいのではないか、という提言からは、著者もつい気づかないうちに背伸びをしてしまったり、世間で評価されるうちに何かの役割と自分が同一化してしまうことに対しても、解毒するような重要性があるのではと思った。
■この本を選んだ理由
Twitter上で武術家の甲野善紀さん、身体教育研究所の野口裕之さん、内田樹さんたちと名越さんがやりとりしているのを知り、時代や思想をリードする人たちが一緒にいるものだなと思っていました。そのなかで甲野さんが名越さんに「甲野さんは自分を憎んでいますね」と指摘されたとつぶやいているのをみて、どんな人なのか関心を持ちました。本書は医学書院のホームページで連載していた対人援助職に対する講演の記録を加筆・修正したものですが、怒りをテーマに、仏教での分析も取り入れながら著者がどのように提示するのか、その考え方にも触れてみたいと思いました。
■本書の構成
自分の心に対してどのように向き合うかという視点から9つのレッスンを提示しています。
レッスン1 心をみつめる
エクササイズ 呼吸を整え、目をつぶって三分間自分の心の動きを観察する。
椅子に座って背筋を伸ばし、目をつぶる。静かに呼吸をしながら、三分間、自分の心を観察する。→「これが本書の最重要課題」
心は一瞬で変わる。→研修医時代、ニコニコしていた患者に意外にもいきなりぶたれた時の衝撃。「日常的な人間関係の基本前提みたいなものが崩れたように感じました。」
「一見連続性があるようにみえる僕やあなたの心も一皮向けばあの女の子の心と同じように今、この瞬間にころころ変わっている。人の心は一瞬で変わる。いま何かを考えていても、次の瞬間には、まったく連続性なく、ほかのことを考えている。」
「ころころ変わる心をそのまま表出していてはまともに社会生活を営むことができないから、心を一定の状態に保つためにかなりのエネルギーを割き続けているということなのでは」p24
「「心は一瞬にして変わる」という性質を無視することによって、はじめて心理学は「学」として成立し、公に認められるようになった、という側面があるんだと僕は思います」p25
→一方、仏教は心は一瞬で変わると認識していた。著者は足掛け五年、仏教の研究をした。
「心は一瞬で変わる。ということは、心に生じた感情が「本物」でない可能性もまた高い、ということになります。」p27 →同時に怒りにとらわれた心を一瞬のうちに切り替える可能性も。
→エクササイズをしてみると、自分の心は自分では制御しきれないくらいの暴れ馬であるということが認識できる。「僕らは普段、自分の心が一瞬ごとに変化し続けていることを意識していないし、それがどんな悪さをしていても、なかなか気づくことができないのです。」p29
→「暴れ馬である心をいかに制御するか、ということが、対人関係を変えていくうえでの一大課題であるということ」p30
レッスン2 「怒りの起源」を知る
コミュニケーションの困難さの起源→著者の仮説「僕たち人間は生まれた直後から数年間の間に大きな誤謬を犯す宿命にあり、その誤謬が、僕らのコミュニケーションの困難さを形づくっている。」p33
最初のコミュニケーション「おぎゃー」という泣き声⇒「相手をコントロールする道具としての泣き声」、母親は「ごめんね」と謝りながら赤ちゃんの世話をする。→泣き声は怒り→怒りを媒介としたコミュニケーションがコミュニケーションの最下層にある。「僕たちは人生の最初に、怒り、泣きわめくことによって、自分の不快を除去することを学ぶ」→「怒ることによって相手を動かす」、「怒ることによって自分の不快を解消する」
誤謬その2→「生まれてから2、3年の間に、「自分にとってもっとも大切な相手に対して、もっとも激しい怒りをぶつけ、それによって不快を除去してもらう」ことを刷り込まれる。自分のことを気遣ってくれる人に、もっとも感情的な怒りをぶつけてしまう。→この不幸な生い立ちを受け入れた地点からコミュニケーションの問題に取り組むためのスタートラインにたつ。怒りの起源は同時に愛情欲求の起源。愛情欲求は承認欲求のかたちにもなるが、これらの欲求も怒りにつながりやすい。
レッスン3 なぜ「怒っている人」に弱いのか
日本人は、文脈に関係なく表現されている怒りを好む傾向がある。怪獣、祟り神など。日本人はそのような怒りを好んできたし、また許容している。それはつまり自分の心の中に同じような怒りを抱えていてその怒りに同調してしまうため。怒りが自分の心をすさませているかという危機意識が弱い。
レッスン4 怒りは百害あって一利なし
怒りは人の知性やパフォーマンスを下げる。
リアリスト→怒りにかられると極端な合理主義者、唯物主義者になる場合がある。目に見えるものだけを判断材料にすることは、自分の想像力がおよばない場所には何も存在しない、存在しても自分と関係ないという考えにつながる。怒りにかられ妄想的な視野狭窄になるのと極端なリアリストは表裏一体。
リアリストは、中長期的にはひきこもりやすくなる。→原因と結果を単純に単線的なモデルでとらえるため、世界を全て偶然ととらえることで世界は信用できなくなり、自分の世界を縮小しようとしはじめる。するとより世界は偶然に満ちた世界になり、さらに閉じこもるという悪循環。一方全てを何かのせいだ、ととらえる「陰謀」的な妄想にも簡単に陥りやすい。
「網の目的世界観」
→「何十、何百という多要素が、網の目のように絡み合って、いまがつくられている」p71
「ありとあらゆる要素がからみあってこの世界が立ち上がっている」と実感して初めて、僕たちは「必然性」を信じられるようになり、必然性を信じられた分だけ、怒りが減っていく。
網の目的世界が立ち上がってきた人は、視野が開けて先を予測しやすくなる。また一方でどんな不幸も自分の蒔いた種として受け入れることができるようになってくる。p73
怒りの反対の方向にあるようにみえる共感能力は、看護師さんなどのスキルとしてうけとられることも多いが、「実は怒りを静めさえすれば、自然と相手の気持ちはこちらに入ってくる」。「大切なことの多くは「心が落ち着いていないとわからない」」p77
レッスン5 怒りに気づく
スッタニパータという教典→「怒ってはいけない」と終始書かれている。
欲望をもつことが、怒りにつながる。時には「希望を持つ」も間違えれば欲につながり、怒りにつながる。
無常→世の中のものは全て変化しており、自分の把握をこえている。それに対して無知であることは、怒りを生むもとになる。
小さな怒りをとりのぞく→急いでいるのに人が道をふさいで何かしているといった時に感じるような小さな怒りの蓄積が心を疲労させている。小さな怒りを取り除いていくことが心を疲労から守り、対人関係を改善する効果的で実践的な方法になる。
不安→その奥には「怒り」がある。
☆エクササイズ
三分間目をつぶって、自分の抱いている「不安」の背景に何があるのか、心の中で分析してみよう。
「もしこんなことが起こったら大変だ、嫌だなあ」⇒「嫌だなあ」の奥には怒りがある。不安の強い人がその奥にある怒りに気づくことができたらものすごい進歩。不安な気持ちがわいてきたときにはそれを形作る怒りの感情に目を向けて。p89
「見下し」「傲慢」「自己卑下」→人の話しを聞いていて「ああ、それはこういう考えでしょ」と勝手に相手の考えをまとめて、後は上の空、という感情も怒りであり、心を疲れさせている。見下しには、「自分が一番正しい」という傲慢な気持ちがあり、それは怒りに近い感情。しかし他人に全て従う人は病人。ベテランの看護婦は患者がわがままを言い出すと元気になったなと評価する。
自己卑下→ 傲慢さの変種。「こんな自分の言ってることがわからないの?」というような迂回したかたちの「見下し」であり、怒りに通じる。
朝の自動思考から距離をとる → うつ病の人でなくても、朝十分に覚醒していない状態で暗い考えが浮かんでくる。脳は意識の制御が離れると止まるより、むしろ暴走してしまう。
レッスン6 「明るさ」は自分でつくる
怒りを観察する→一日100回怒っていても、その一回を減らせばそれだけ違い、明るくなれる。怒りに気づく、認識するだけで、怒らずにすむケースがあり、認識するだけで人は変われることがある。
エクササイズ 心の基準点をつくる
目をつむって一分間、「自分らしい自分」を思い浮かべる。心が軽くて、明るくて、気分よく呼吸できている状態が思い浮かばなければ、基準を変えて本来のところにもどす。基準点をリセットする。
お茶やお花 →日常に「節目」をつくって、気分を切り替える儀礼。「いまこの瞬間」に生きることで、過去や未来の憂いを消す思想であり、実践的技法。お茶をいただくこの瞬間に過去と未来の節目をつくる。「自分が生きている時間の中にたくさんの節目をつくっておくのが、明るく生きるコツ。」「だらーっと、地続きの時間がずっと続いていくと、人間というのは必ず怒りをためてしまいます」p103
リセットのためのエクササイズ
①木に抱きつく→お気に入りの太い木をみつけ、毎朝一分間程度、両手を幹にふれ、深呼吸をする。木と一体となり、心の中の淀んだ部分を流してもらうことをイメージする。→人に頼らず自分の力で自分の心をコントロールできた実感がもちやすい。
②深呼吸→背筋を伸ばして座り、15秒かけて、ふーっと息を吐ききる。吐ききったところで、すうっと息を吸い込む。10回繰り返すと視界が開けてくる。→コツは、背筋を伸ばして、あごをひいておくこと。自分のなかの真っ黒な怒りの固まりを煙にしてふーっと吐き出すイメージなどをつくってみるのもよい。
③念仏を唱える→心の中が怒りにとらわれそうになったら念仏を唱える。念仏の種類は問わない。念仏が嫌なら「私は怒っている。私は怒っている。」と5回ほど心の中でゆっくり唱えるとリセットできる。←スリランカ上座仏教の長老スマナサーラ(著書に『怒らないこと』など)さんの教え。
朝の過ごし方が一日を決める→心の基準点が決まりやすいのは朝。自動思考を避けるために、早いうちに冷たい水で顔を洗う。辛ければ目だけ冷たい水につける。夜に飲み食いしない。夜九時以降はなるべく食べないなど。
エクササイズ シャワーを使う
風邪っぽかったり、調子が悪いときに、熱いシャワーを背骨にかける。目をつぶって身体の状態を観察しながら、頸椎から胸椎、腰椎、尾骨まで順にかける。熱さをあまり感じないところがあれば、重点的にあたためる。
心には毎日が聞く →一週間に一時間より毎日5分が効く。
心を変えるのは一瞬でいい。→長く持続しなくても、明るい気持ちを一瞬回復するだけでも変わってくる。
自分で明るさをつくる→自分の怒りは他人のせいという考えから徹底的に抜け出しておく必要がある。怒りというのはあくまで自分の心のなかの問題。日々の生活のなかで怒りを消すことを地道に実践していくことが対人関係の問題を解決する。
レッスン7 対人関係をストレスにしない。
怒らせる人は苦しんでいる。→自分を怒らせる人たちがどういう人たちなのかを考えると、実はその人たちも怒っていて、怒りにまみれた不幸の渦中にいる。人を怒らせる人は、孤独で、人を信じられなくて、ほんとに情けない気持ちで生きている。そこまで洞察が及ぶと、カリカリすることも減りやすい。
「便利さの追求」としての他者からの撤退 →対人関係から撤退する傾向は誰もがもつもの。社会は利便性を追求するために、他者との軋轢をさけ、それを発展と位置づけてきた。「便利さ」の本質は、他者から遠ざかることと言ってもいいほど。
他者から撤退せずに現場に踏みとどまるには→「俯瞰でみる」どのようなグループに所属したとしても、個としての自分とグループの間にある温度差やギャップをできるだけ引いた目線で認識しておく。現場にいる自分を少し遠くに浮かんでいる気球から見下ろしているような感じ。職場のカラーから頭一つ出しておく。
無理しておつきあいしない。→おつきあいしないといけないことへの不安がある。不安は怒りから生じている。
エクササイズ 嫌いな人のために祈る
目をつぶって十秒間、自分にとっていやな、あるいは苦手な人のポートレートを思い浮かべる。怒りを消していくと、イメージ上のその人が笑顔になっていく。「僕たちは「怒ること」を
やめることでしか、その人に対する怒りを消すことはできない」p136
エクササイズ
一日の終わりに、背筋を伸ばして座り、手を合わせる。ゆったりと息を吐きながら、自分の大切な人へのお祈りと合わせて、自分の苦手な、嫌いな人についても、幸せを祈る。
他者の触媒作用 →他人と関わるところで、救われたり、成長したりする。それは大きな恵みだが、しかしそれに依存せず、あくまで自分が変わるという気持ちがあることが大切。
他人に相談するときはあっさりと淡々と放す →深刻な悩みでもあっさりと話して、それに相手も相づちをうつというようなやりとりで解決してしまうこともある。「会話に「軽快さ」がないと、人に話すことの効果は薄くなってしまう」p140
レッスン8 日常のための瞑想
瞑想によって、怒りの妄想性に納得すると、怒りを消していくことがすすむ。
瞑想→ 室内を静かにして、証明を暗めにする。座って背筋を伸ばし、手を前でくむ。目を静かに閉じ、深呼吸する。
様々な瞑想 →呼吸を見る、念仏を唱える、光をみる、身体感覚に注目する、仏像をイメージするなど。
瞑想の落とし穴 →特別な人であるような錯覚をもちやすいので十分注意する。特別な体験にとらわれず、現実の世界のほうに足をつけておく。良い師匠から指導を受けるのが望ましい。
レッスン9 プラスアルファの学びとしての性格分類
同じ感受性を共有しているという思い込みを手放す →個々人は全く感受性が違う。人への対応も一律にはできない。
デメリットを超えメリット →「自分を知る」という動機で性格分類を学んでいくなら、固定観念を強化する以上にメリットがある。性格分類を学ばないかぎり、、その性格がよってたつ固定観念に気づくことが非常に難しい。p171
類人猿分類 →タイプをゴリラ、ボノボ、オランウータン、チンパンジーの4タイプで分類するもの。
名越式性格分類 →体癖論をもとにつくられた十タイプ。頭脳、感情、行動、闘争、集中の五タイプがあり、それがまた陰と陽の二種類にわかれる。
今日のブックレビュー『主婦と労働のもつれ』、著者の村上潔さんも参加してくれて、贅沢な時間になりました。
1955年の主婦は働くべきか否か、という問題提起から始まり、1.女性が職場に進出していくのが望ましい、2.主婦にとって家庭内の仕事こそが重要なのだ、3.主婦は企業で働く男性にはできない生活の場での運動をしていくことに価値がある、といった主張がされます。
著者は、以上3つの立場に加えて、論争のなかで浮かび上がっていなかった層を提示します。上記3つの立場の人たちは、選べることができる中流以上の主婦が暗黙に前提されていたけれど、そうではなく貧困のため、働かざるを得ない人々という層がある、と。
この層の存在をふくめて、女性と労働の関係を歴史的に追っていくと、主婦だけでなく、結婚しない人、男性、派遣社員、フリーター等を含めた、資本主義的な企業の体制とそれに対するマイノリティ全体の話しにつながっていきます。
「主婦」を問題にする思考は、80年代に女性学やフェミニズムが輸入されると、時代遅れのものとされ、議論や研究の対象からは遠ざけられていきます。ウーマンリブでは、無自覚無意識な主婦はむしろわたしたちの敵だ、という位の認識で、女性による女性差別的な側面があった。
国の政策や企業での女性への条件改善も、いわゆる男と同じように能力を発揮できる一部の女性や、その逆の働かなくてもいい中流の専業主婦だけがその恩恵に利するものであったりして、働かざるを得ない女性たちは無視されていた。
高度経済成長のなかで、雇用されている女性の49.9%がパート労働者となるほどになったが、パート労働は低賃金、単純作業、昇進の見込みもないもので、企業にとっては経費を抑えるために、権利も社会保障もないパート労働を産む性である女性の主婦性につけこんで、使い勝手のいい使い捨ての労働力を意図的に取り入れ、労働力を安く確保する仕組みをつくっていった。
一方で、パート労働者はこのような差別的な条件に晒されながらも、主婦という仕事があっての片手間の仕事であることもあって、自らでこの状況に異をとなえ、労働条件を改善していく運動を組織化していくという意識があまり高くなかった。
このような状況のなかで、しかし、70年代にたちあがった主婦たちのネットワークは、リブが遅れていると見なしたその主婦という立ち位置で、リブの思想からも、国や企業からも疎外されてきた女性たちの状況を、単なる個々人の意識の問題に回収しない、女性が産む性であることに起因する普遍的な差別の構造として明示することができたという。そしてパート労働者の組織化や、課税限度額の引き上げ運動など、理念に加え、現実の状況を改善しながら、主婦たちが意識や自律性を育てていく足場をつくった。
70年代から80年代にかけて、このような先進性をもった運動や知見が出されていたにも関わらず、これらの知見はその後ほとんど光を当てられることがなかったという。村上さんがこの著作でそれらを掘り出して再提示したということ。
学問というものは、過去の積み上げと整理がきちんとなされたうえで現在の知見があるのかという先入観があったが、必ずしもそうではないようだった。
問題意識をもった30〜40年前の当事者たちのほうが、むしろ現代に通じる先進性があったけれどそれが断絶していた。逆に言えば、その状況に対応し、鍛えられた当事者たちの意識や実践は時代を超えているものになりうるということなのかもしれない。
雇用の一層の流動化、貧困層の拡大、人災としての3.12等の切迫のある現代で、非営利のワーカーズ・コレクティブや比較的理念性に縛られない枠組みのワーカーズ・コーポの境界が曖昧になっていくなど、現在の人々の実践はこれからどのようなものに結実していくのだろうか。
べてるの家の実践などを考えると、先ほども言及したように、時代を超えた実践というのは、個々の場所で既に行われていると思う。そのような個々の実践を発見し、それを現代的意義が理解されるような翻訳を行い、他の人がシェアできるかたちで伝えていくことが必要なのかと思う。
http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27156.html