(ツイッターで書いたことを修正・加筆してます)
二条新間之町下るの絵本屋きんだあらんどに行った
「つみきのいえ」がないかと思っていったが残念ながら見当らず。
しかし、絵本のセレクションがすごい。びっくりした。
店内は、親子がねそべったり、座ったりして絵本が見れるようになった小さな空間で、お客さん同士も店主さんとお客さんの距離が自然に近くて、交流が生まれやすい空間設計。
店主さんとお客さんは、子育ての相談をしていたり、お母さんが昔に見た絵本が話しのなかで判明したり、武将のかっこして活動している書道家のイベントのチラシをもってくる人がいたり。僕がいった2時間ほどの間に起こってることの密度や頻度が高かった。
店主さん、気にいった絵本の作者や出版社の社長に手紙を書いたり、連絡してお話しを聞きに行ったりするらしいけれど、その絵本理解が深い。あの本のここ、これに関連してはここ、とどんどん紹介もしてくれる。
そのお話しや絵本紹介のクオリティの高さには感激。
身の回りに本も物も情報もあふれている。
だから、自分にとって本当にいいものに出会えるのには、そのいいものを知っている人と関わりをもつのがいいんじゃないかなと思う。
そしてきんだあらんどにいってもう一つ思ったのは、育てることへの意思をもつことの重要性。目の前の現実がいいリーダーや、いい制度によってぱっと変わるように見えることがあるかもしれない。でも現実が本当に変わり、それが維持されるのには、全ての人が変わっていくことが必要だと思う。維持という言葉を使ったけれど、豊かさは常に創造されていくもの。創造の重なりが「平和」だったり、「健康」だったりするのだと思う。
現実は自分の生きている間にそれほど変わらないかもしれない。
でもそれが変わる準備を整えていく。僅かであっても、それは後退のない歩みだと思う。そしてそれは自分を整えていくことでもある。
政治が変わる前から、社会や周りが変わる前から、自分が今からここから育てられるものは何かを発見すること、そこはスタートであり同時に終着点。
自分という、他者とつながった土壌の微生物層を豊かにしていく。
共に豊かになっていく方向がある。そこでただ育てていくのだ。
表現と自意識は、ピンボールが自分が跳ねるピンボール台のような関係です。
そして、ピンボールは自らの運動によって、ピンボール台を変えていきます。
では、ピンボール台は、ピンボールによってどのように変えられていくのでしょうか。
表現はどのような方向性をもっているのでしょうか。臨床心理学を例にとって捉えてみます。
臨床心理学での治療者の役割は、患者の内的な創造性、自己回復力を活性化させる環境をつくり、患者が自分自身によって自分を回復させていくプロセスに寄り添うこととされています。
治療は、はじめから患者の内部にある創造性に依存しています。治療者が治すのではなく、患者のもつ内的な創造性が治すのです。その創造性は、自らを回復させ、豊かにさせるべくはたらいています。表現はそのような創造性をランチャーとして、発進させられた力の流れであり、運動がかたちをもったものです。
患者が治療者を必要にしてしまったのは、不幸にもその創造性を自分の力ではたらかせることが困難になったためですが、それでも治療者という媒体を目の前に得れば、創造性はそれを活用し、自らの回復を達成しようとする自律性を持っているのです。
患者は、治療者に対して表現します。関係のなかで、表現が否定されず、受け止められることが徐々に確認されていけば、そこには信頼感が生まれ、表現はさらに自由となり、またさらに必要な表現が現れてきます。
初対面の治療者に対して、当初信頼感は少ないものでしょう。しかし、そこに表現を投げかけ、受け止められることによって、治療者への認識が変わってきます。治療者というものに対する認知は、より信頼できるものになっていきます。
これは大きな創造です。投げかけないと信頼は生まれることもできません。患者は信頼をまず創造しているのです。信頼が生まれれば、さらに表現は自由なあり方を保証されていきます。必要な表現が生まれてきます。必要な表現がされるということは、患者が自分の置かれている世界をどんどんと創造し、変えていっているということです。
患者は、必要な行動をとり、自ら回復していきます。
表現という運動は、治療関係において、自己回復的で、自己創造的な傾向を内在しています。
しかし、この運動は治療関係のみにあてはまる現象でしょうか。
病のときにだけ、そのような自己回復的・自己創造的な運動がおこるのでしょうか。
A・マズローは、欲求の段階説をとなえ、生理的欲求を満たされた人が、
徐々に社会的に承認される欲求や自己実現の欲求をもつとしています。
このような欲求、運動は自律的に生まれてくると考えられます。
表現をすることは、囚われた檻の世界、それまでの自分自身に死を与えるような行為です。
自意識は既知という鏡で構成された世界です。
自意識と表現は、ピンボール台とピンボールのようです。普通ピンボールは台のなかで跳ねます。それがピンボールという遊びです。しかし、表現というこのボールは、鏡の中の世界、自意識のなかでいつもは跳ねているようでありながら、必ずしもそこにとどまらず、自意識を超えた運動をします。表現は、未知なる世界へと身を投げ入れ、そのことによって自意識の閉じられた世界を破綻させる力をもちます。
ボールが未知へと投げ出された瞬間、自意識がそこに依拠していた過去の世界はもう成り立つことができず、崩れはじめます。しかし、自意識は、そこで出会うものによって自身の世界を再構成します。新たなピンボール台が生まれます。ピンボール台はこうして更新されていきます。新しいゲームがはじまります。
あるとき、ジゃナーリズム系のサイトである動画をみました。
現在の世界の動き、大きな力をもった人の発言、戦争などが、
音楽と共に画面に現れてきます。
権力をもった人の世界を悪くしていくような発言、戦争、
ネガティブで希望を失うような世界の映像なのに、
映画の穏やかなエンディングのような音楽が流れていました。
遠いところからみたことのように。
僕は、それを現実を直視することを避けた表現とは
受け取りませんでした。
それは、宇宙のなかのちっぽけな人間世界の位置づけであり、
同時にその世界のなかで歩んでいくための距離のとりかたの
表現であるように思えました。
エピローグは物語の終結部です。
社会でおこることを全てと考え、
それが満たされないために絶望してしまうのではなく、
この世界を一つのエピローグとしてとらえてみたとき、
現実に折れない歩みが僕たちに生まれるのではないかと
思っています。
表現することとは何でしょうか。
色んな専門家が表現について、もう既に多くを述べています。では、作家や芸術家、あるいは大学の研究者などの専門家が言うことをおさえてから、表現について書けばいいでしょうか。そうしてもいいかもしれないけれど、しなくてもいいと思います。たとえば、僕が今書くというこのプロセスをすすめることによって、僕の中の何かが変わっていくように、人は表現することによって、自らに必要なプロセスを満たしていくからです。表現したいという動機があるとき、理由を知る必要はないと思います。表現は、自意識をこえた、生体の自律的な自己回復運動だからです。昔の歌で、知らぬ間に築いていた自分らしさの檻のなかでもがいてるなら、というのがありましたが、そんな檻を抜け出し、より多様性をもった豊かな世界を創造していく衝動が人のなかにあります。
表現には、自分をよく見せようとする表現もあり、また自分が閉じこめられている自分のなかの世界を変えていく表現もあります。前者は、言葉上では良いものを目指しているようでもありますが、結局のところは恐れや強迫的な思いにもとづくもので、必要な環境が与えられたとき、そんなことをしないいでいい環境になったときには消えてしまう一時的なものです。後者は、自分自身の世界や土台をさらに豊かに変化させていくもので、終わりのないものです。前者がかなり意識的な努力であり、疲労と近しいのに対し、後者は意識の外から湧き出てくるものであり、共にあるときは、むしろ力づけられています。表現は全ての人のものです。そしてここでは、後者の表現を考えていきます。