今年の自給の作物づくりを学ぶ講座ももう残すところ3回となった。講座を運営しているので、農が好きな人、農に主な関心がある人ととらえられるけれど、関心があるのは農という分野ではない。 この現代のくらしのまるごとがあるなかで、分野を区切って語ることに個人的に違和感がだんだん強くなった。農、障がい、福祉、からだ、自然、運動とかそれぞれそれなりの理由があってわざわざ区切っているのだろうけれど、区切られた瞬間に全く別のものになって、その区切られた分野から語る、考えるということによって失われるものが多いように思う。
僕は畑をやっているけれど、もともと作物づくりには関心がなかった。アトピーで添加物とか入ったものはなるべく食べたくなかったし、環境汚染・環境破壊を問題と思っていたけれど、もし元田中の糸川勉さんのカフェに行かず、自給という考え方に出会わなかったら、畑もしてなかった。 自給というとらえかたで世界をみたとき、初めて自分にとっての作物づくりに意味が生まれた。 自分に必要なものを、自分が世界に働きかけることで直接手に入れることのなかには、農、障がい、福祉、からだ、自然、運動も全て含まれていると思う。
自給というのは、時間の質をふくめた暮らしのまるごとを自分でデザインすること。 作物づくりは、自分の暮らしや過ごす時間の質をコントロールすることだ、とわかった時に初めて作物づくりは自分にとってやるべきことになった。
作物づくりは同時に自分がどう生きていきたいかをこの世界のどこかにいる潜在的な仲間に対して伝わりやすくするメディアでもある。 端的な例では、糸川さんも時々話されるけれど、秋に米が1年分とれればとりあえず1年間生きられる。9時から5時まで働いて、1ヶ月分ごとに給料をもらうあり方と、1年間生きられる実物の食料を手に入れる気持ちのありようの違い。 誰かのやり方やルールに従うことから、自分のやり方を工夫し、世界から自分の働きかけで直接必要なものを得ていくときに得られる感覚の強さの違い。自分が自分として回復しながら、世界に対して向き合う力をより得ていくプロセスを手に入れるのが自給なのだ。
そういった時、万人にとって畑をやることだけが自給ではなくなる。身体的障がい等で畑ができない人もいる。単に性格があわなくてできない人もいるだろう。ようは、世界と自分が直接関係をもち、直接働きかけ、環境を創造していくこと、どの場所であれ、世界との関係性を創造していくこと、世界を自分のほうにひきつけていくこと、自分を生きていく主役にすることなのだ。
社会は深刻な暴力性にさらされている。暴力に向き合うことなく、自分のことだけやっていて、自分の生を生きることはできないだろうと思う。 そう思っていたときに福島に行った方の投稿のなかで田中正造にふれられているものがあった。暴力性と生きていることの関係はなんだろうか。考えた。 社会が今のようにできあがる前は、自然が暴力であっただろう。病原菌も災害も自然だ。自然の恵み、余剰のなかでしか生きられない人間でありながら、同時に自然は一日にして命を含めた全てを奪いさっていく不条理そのものであり、暴力だっただろう。 強いものが弱いものを圧倒する。弱いものは暴力のなかでみじめに生き、消えていく。
僕は人間がわざわざ自然の状態から社会や文化をつくったのは、その不条理さへの向き合いだと思う。ほっとかれた自然状態ではやりきれない。大自然の暴力にはかなわない。でも人間同士の協力のなかで救いをつくろう。それが社会の立ち上がりの大きな動機なのではないかと思う。 社会ができ、人間のなかで強いものが弱いものを抑圧するようになった。それを嘆いてもいいけれど、でも人間同士で抑圧する前から、強いものが弱いものを抑圧することは一度も変わっていない。 生きることというのは、昔から暴力にさらされることであり、それに向き合うことだったのではないだろうか。そして全ての物には暴力性がある。私は暴力であり、あなたも暴力であり、自然、世界も暴力だ。だからこそ、そこに共に(所詮手製であっても)救いをつくる。それができることとして残されているし、それしかない。 完全に自然が調和的であったら、そこから人間は抜け出なかっただろうと思う。
生きることは、暴力のなかを生きること、生きづらさのなかを生きること、向き合うことなのだと思う。 僕が思うにそういった世界のリアルを最も純粋に表現しているのが、カリフォルニアの砂漠で行われた祭り、wasteland weekendだ。ここでは同時に救いというもののありようのヒントを提示しているとも思う。 wasteland weekend カリフォルニアの砂漠、核戦争後の荒廃した世界を再現したような荒れ地に、くず鉄や革の鎧に身を包んだ人々が集まり、プラスティックと段ボールでできたあばら屋が立ち並ぶ。北斗の拳も元ネタになったというマッドマックスのファンが始めたイベントだ。
なぜこの祭りに人が集まるのか。 楽園ともユートピアとも真逆の最悪の世界、誰も認めたくなくても、実はそれが世界のリアル、実情なのだと思う。そのリアルを目に見えるかたちとして表現するならマッドマックスの世界になる。 個人的な推測だ。しかし、そのリアルを表面上取り繕い、見栄えを保とうとしているこの世界に対して、集まった人々はリアルを突き付けているのだ。これがこの世界だ。あなたと私はまさにこのような場所を生きているではないか、と。 この最悪の世界のなかで、しかし、逆説的に彼らはこの祭りのなかで一つの救いを創造している。恵まれた環境のなかでしかおきない救いは救いでもなんでもない。最悪の状況のただなかで、それを共に引き受け、救いをつくる意思。それが生きることへの向き合いであり、限界ある人と人の関係性のたどり着くところであると思う。
ーーーーーーーー 「われわれが知っている文明の最後を祝う集まりに参加しようとして、人々はここにやってきている。文明から離れて、一緒に塹壕に入ることになる人たちとの共同作業をしながら。この世界でいちばんクールな連中さ」と、イベント・スタッフのアダム・チルゾンは語る。「人間にはまだいくらか希望があるかもしれない、と思えてくるんだ」 ーーーーーーーー