|
|
最新の記事
カテゴリ
タグ
ブログパーツ
その他のジャンル
ブログリンク
|
|
リストカットがやめられないと自分を責める人に対して、べてるのむかいやちさんは、結果として不十分かもしれないがリストカットもまた、あなたがあなたを助けようとしているんだという。あなたはあなたを助けようとしているんですね、と。
そのとき相談者は、自分をコントロールできず、孤立無縁で力もなく受動的な存在という自己認識にかわって、からだという自律的に自分を救おうとするもの支援が常にあること、生きものとして奪われることのない主体がそこに現前していることを知る。
前に精神科医の中井久夫さんが講演の時に、統合失調症とは自分を壊してでも生きようとしているからだのありようだ、といったことを言っていたように記憶している。
からだは自律的に生きようとしている。自意識を超えたところで、自分の物理的な身体の内側に対しても、外側の世界に対しても働きかける。
その自律的な力は押し寄せる奔流のようで、本当に何が何でも、壁があったらそれを破壊してでも、自分の思考が邪魔しているならそれを破壊してでも目的を達しようとする。
なので追い詰められれば自己破壊的にもなり、犯罪的な現れになってでも出てくる。そこまで追い詰められる前に本人と周りが適切な力の流れどころを調整する必要がある。
生きようとする力が破壊的になる前に得る力の流れどころはどのようにえられるか。
結果論になるけれど、不幸にも暴走してしまうのは、社会的にも自分でも抑圧に抑圧が重ねられ、そこしか奔流の出るところがないからだ。
その抑圧をいかに緩和することができるのか。その時のキーワードは尊厳ということになると思う。
人と人のあいだで、自己を回復させるための運動、世界への働きかけのプロセスが生まれるのに必要な条件は安心、安全、信頼、尊厳だという。信頼までが保証されても更に尊厳が提供されないと、そこに自己を回復させる運動は出てこないということだ。
だからあまり日常で出てこない言葉だけれど、自分にとって、あなたにとって尊厳とは何かは、最も探究され、確かめられるべきことだと思う。
生きるものは、自分で自分を回復させていく潜在性、自律性をもっている。それを発現させるために尊厳が必要。そして自分にとってのその尊厳が何かは個々によって違う。手探りで共に確かめあうしかない。
表現の自由が保証されなければいけないのは、それがないということは、個々がそれぞれ他でもないこの自分が自分で回復し、生きていくという生きものとして当然の力を奪うことだからだ。
表現の自由とは、1人の人が回復しながら生きていくための生きものとしての権利なのだ。
そして生きるための表現の自由は、尊厳が守られたところに現れてくる。だから誰かの尊厳を卑しめることを言うのも自由だということなど、そもそもあり得ない。
言いっぱなしとそれに対する言いっぱなしは単なるお互いの抑圧であって表現の自由でも何でもない。
表現の自由と言った時は、他者同士としてのお互いの歩みより、共に尊厳をこの関係性のなかにつくるということでしかないはずだ。
尊厳と考えたときに、どれだけの暴力が自分とそして自分の周り、親しいと自分が思っている友人や家族とのあいだでさえ、起こっていることだろう。
自分も抑圧者そのものだ。しかし、そこからでも始められる。誰か1人も1人の間でも、お互いに、共に尊厳をつくっていく意志があるなら。そもそもそれが本当のものであればあるほど、尊厳は不恰好な手づくりでしかつくっていけないものだろう。
参考文献:ゆるゆるスローなべてるの家
|
|
|