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「回復のための演劇」が構成できないかと考えている。
坂上香さんの「トークバック 沈黙を破る女たち」では、HIVに感染した女性たちが自らの尊厳を回復するために自らの物語を演劇化している。この映画をみたある自助グループでは、それまで受け身でプログラムをこなしていたのから一転して、自分たちで詩の朗読会をやりたいという人たちが出てきたという。
人間が、今自分がそうなっている状態に苦痛を感じ、その苦しみを終わらせたいとする。人が変化するためには、状況設定が必要だ。かつての伝統的な通過儀礼などがそれにあたる。現代の安全な成人式と違い、命をかけるようなものもあり、高い緊張を引き起こすことがそのうちに含まれている。必然的に揺り動かされる。変化がおこるには揺り動かしがまず必要だ。揺り動かしは、分離をうながす。
そしてそれまでの状態から分離し、過渡的な状態(境界)に入り、新しい状態に移行する(再統合)。
揺り動かされるとき、もちろん人は緊張し、ある種の危機を感じる。だが、そこに支持的な環境、関係性が用意され、安心できるとき、今まで自分自身を限定していた枠を破綻させる行動がおこってくる。いつも安全なところに退避しようとしてしまうが、同時にそのことに払う代償が大きすぎるのでやめたい圧力が強まっているときだ。大きくなったやどかりが、今の殻に不快を感じるように。
洗脳のようなことも、途中まで同じプロセスをとらされるのだろう。弱い状態にされて前の属性を否定され、無理やり次の型に入れられるような。
というか、むき出しの心が外界にさらされる幼児期の体験など、洗脳と同じような構図だろう。
とりあえず、生き残った。しかし、幼児期などの激流の時代に形成された現実への態度、理解が、生の質に制限をかけてくる。基本的に防衛というのは、自動的で分裂的なのだと思う。精神科医、神田橋條治さんは、健康な状態というのは、生まれてから今までの記憶、学習が即興的に自由に使える状態だと言っていたと思う。
防衛は、ドラクエ1のゴーレムのようだ。最初は怪物から街の入り口を守るためにつくられたものだったが、狂わされ、人をふくめた全てに攻撃するようになった。融通がきかない。自動的だ。その自動性は、自意識で直接コントロールできないものになっている。
だが、防衛にはものすごく大きなエネルギーがいる。加えて、防衛によって外界からエネルギーを取り入れることが難しくなる。結果として、総合的には、生きていく勢いが減っている。不必要に常時、緊急事態にいるようなものだ。
しかし、防衛が防衛として残っているのは、それがまだ意味があるからなのだ。その役割を他のものが補えるなら、防衛は役割をわたし、やがて消えていく。その補うものを提供する。
提供するために必要なのは、体験だ。ただの受動的な体験ではなく、スポーリンが言うような強い関与、主体性、自発性、直観とともにあるときに体験ができるのだろう。それは、構成され、準備された環境であるが、日常の規範とは質が違うものとなる。
日常の規範では、不特定多数に対する防衛の優先がある。弱みをみせてはいけない、隙をみせてはいけない。本音を言ってはいけない。あわせなければいけない等々。
安全で支持的な環境において、その日常性の規範を脱する。自分の設定していた枠をこえ、踏み出す。そして踏み出した結果を享受する。そのことによって、使えるエネルギー、感じられる感覚は増え、世界のより多くのものと関係性をもてるようになる。生きる勢いが増す。
トークバックは映画なのでエンターテイメント性ももちろん必要で、そういうところもあって劇的で、強い手法をとっている団体を選んでいるとのことだったとけれど、坂上さんはアフタートークで、もっとマイルドなかたちのワークをしているグループの話しもされていた。アプローチには、グラデーションがあって、それぞれの状態や必然性にあわせればいい。演劇でなくても、詩の朗読会でもいいわけだ。
スポーリンは、1日や2日だけ関わるような関係性ではなく、ある程度長期的に関わるグループを主に想定しているとのことだったと思う。信頼関係、育てあう関係が次第に醸成されていく。僕としては、この信頼関係、育て合う関係のほうが先にあれば、自然に様々な物事がいい方向に展開していくだろうと思う。
公演で生計をたてる役者になるのだったら、どれだけ自由になれるか、どれだけ演じられるかが重要になるのだろうけれど、みんなが役者にならなくていいのであって、個人が自分の防衛からより自由になればいいし、人と人がお互いにより深い信頼関係をもち、人が変化しようとする時に支持的に支えられるようになればいい。これだけで十分革命的なことがおこるだろう。
演技がうまくなるためではなく、治療のためでもなく、成長のためでもなく、ただ個人のなかにあって動こうとしているものが動きやすいような環境をつくれればそれがベストだと思う。ある特定の価値観を至上のものとすると、それもプロセスの邪魔をする。
「回復のための演劇をします。」と言わずに実質的にそうするには、どういう設定が必要だろうか。たぶん、別の建前をつくり、主にそれに向かっているような錯覚をもつことによって、自由になると思う。四国遍路で88カ所の寺をめぐるという目的をたてながら、そのことによって「道中」をつくるように。四国遍路においては、遍路は道中にあり、と言われる。お寺ではなく。
スポーリンの本を購入。
注釈が丁寧で、章の終わりなどでまとめて書かれているのではなく、そのページのなかにコラム的なスペースをとってすぐに説明されている。たとえば、本文中の「関わり」はinvolvement の訳で、これはrelationshipより強い関わりを示す言葉だが、これと混同しないように【取り組み】【関わり】と併記している部分があるなどとそこで説明されている。
スポーリンは、個人の体験することに対する受容能力は、あたかもその個人があらかじめもつ「才能」のように思われているが、その受容能力を高めることができると考える。直観を特殊な人のみに備わるものととらえない。
「私たちは、自発性によって本来の姿に再形成されます。それは単に先人から譲り受けただけの思考の枠組み、古い事実や情報、他人の発見による未消化の理論や手法のいっぱい詰まった記憶から私たちを一時的に解き放つ爆発を生み出します。自発性とは私たちが現実に直面してそれを見つめ、探り、それに応じた行動をとる個人の自由の瞬間なのです。ここにおいて部分のよせあつめにすぎない私たち自身が一つの完全な有機体として機能するのです。」
自発性はspontaneityの訳語で「意識的におこなうのではなく、自然に生まれてくる行為や行動、その様子をさす」とある。意識的操作ではなく、自律的なものとされ、本書では場合により、「自然発生」とも訳される。
主体性とか、自発性とか日本語で言うと普通は、意識的な操作をイメージすると思うが、現れてくるもの、現れてくること自体に自律性があり、それが引き出される体にするということは、面白いし、意識的努力で疲れきった人には救いだと思う。
スポーリンはゲームによって、自発性を引き起こす状況をつくる。そして自発性が個人を導いていく。スポーリンいわく、「私たちは経験し体験することから学ぶのであって、誰も何も誰にも教えなどしないのです。」
体験とは、「環境に入りこむこと、有機体として丸ごと環境と関わることです。これはすべてのレベルで、つまり知的、身体的、直感的という3つのレベルにおいて関わるということ」であり、「このうち学習の場できわめて重大な直観がおざなりにされている」とされる。
「直観は即時的にしか、つまりこの瞬間にしか反応できません。直観は自発性の瞬間、つまり私たちが移ろい変化し続ける周りの世界と関わり、そして働きかける自由の瞬間の贈り物としてもたらされるのです。」
(・・・自発性はどうも僕にはあんまりイメージをよばないので、もう一つの訳語、自然発生とよぶことにする。)
自然発生がおこるための環境整備として、ゲーム、賞賛と否定、グループ表現、観客、演技術、日々の生活に学習プロセスを移行する、身体化、が挙げられている。
自然発生がおこっている状態のなかで、直観が生まれる。直観は、断片的な知識、過去へのとらわれなどを排し、人前で身をさらす恐怖に縛られたエネルギーを解放する。本来の意味で個人を統合的な行為を導き、同時に個人を再更新、再体制化する
このサイクルを繰り返すことによって、自分とともにある自然が発見され、そこへの関わり、通路がひらかれていく。世界との関わりにおける、詰まりをとっていけるということなんだろうと思う。
芸能などにおける型は、個人が陥りがちな癖をとるものでもあるということだけれど、スポーリンにおいてはゲームがその役割を果たすものなのだろう。
スポーリンの前提では、たぶん、1日とか2日とかの、その場限りで終わるグループではなく、長期的に関わりをもつグループが想定されているのだろうと思う。
どういうグループをつくるか考える。公演が目的ではないけれど、純粋に練習だけするというグループが、グループとして続くのかなと思う。大人の演劇部さんとかは、稽古だけといっても、リピーターもあり、初回もありの混在グループでコンセプトを設定していると思うのでそれでいいと思うのだけれど、スポーリン的なほうの成果を求めるなら、一度決めたらしばらくはそのメンバーでずっとやるほうがいいだろう。他にアイデアがないのなら、公演や発表をするということをいれたほうが必要な張りをもって歩みを進めるにはいいだろうと思う。
学ぶ場を維持するためには、やはりそれが一種のナリワイというかたちにつながるのがいいのだろうか。あることを成り立たせるためには、そのあることの周りの環境をつくって成り立たすことが必要なのだと思うけれど。
http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624700867
先日、「バカボンパパに学ぶ苦悩の人間学」という発表を聞きに行きました。病によって終末期にある人たちや、自身がそれまでもっていた生きる意味を失ってしまった人たちの苦しみの構造とは何なのか。軽めのタイトルにみえて、様々な事例からその問いへと迫る真摯な発表でした。
そのなかで発表者から会の参加者への問いがありました。人間が苦しいとき、一番最初にとる行動とは何か。何人かがこたえた後に、それは「がまん」ではないかとの指摘がありました。痛いこと、苦しいことに対する最初の対応は、ただじっと耐えそれをやりすごすことであり、それではいよいよ対応できなくなったときに初めて助けを求めだすというのです。なるほどと思いました。そしてもう少し考えました。我慢するということのなかには、保持するということがある。痛み、苦しみをかかえながら普段通りの行動をし、それが勝手にどこかに消えてしまうのを待つ。苦しみに耐えかね、日常生活や繊細な社会関係のバランスを崩すようなことを避け、元のままの秩序を維持しようとする。これはこれとして生きていくための重要な要素であると思います。
しかし我慢には、もう一つ側面があると思いました。それは抑圧という側面です。おこったことによって、今まで通りの自分であることを変えさせられないために、その痛みや苦しみから発せられるメッセージを受け取らず、放置する。無視する。そういう側面です。苦しみの原因に取り組む困難さに向き合うよりも、苦しまないためにそらす。抑圧する。
起こった痛み、苦しみがあったとしても犠牲にしたくないものがあります。この自分の身に降りかかった今の痛みや苦しみの根本的な原因に向き合うよりも、今の自分やその生き方、秩序、普段通りの日常を変えることのほうが嫌なのです。だから自分を抑圧します。そしてまだそれだけでは終わらない。自分が抑圧していることを、他人も同じように抑圧していないならば、その他人の言動に揺り動かされ、封印していた痛みや苦しみ、混乱が現れるので他人もまた抑圧の対象になります。
ポジティブに考えよう、などとよく言われることがありますが、それが生きることの苦しみや闇をただ否認しているだけのときもあります。目の前の人の苦しみを自分が受け止めないために、いいこともあるよ、いつか幸せになれるよ、そんなネガティブになってはいけないと言います。自分の幸せに対する見方を提示します。でもそう言う人は同じ苦しみをもち、抑圧に必死なのです。もし本当にその自覚すらなければ、その分余計深刻であるともいえます。苦しみを表面にあらわし、向き合う余裕、力を持たないことそれ自体が、既に生きることに対して十分に苦しんでいる証明だと思うからです。
苦しみを一旦受け入れる力をもつことによって、苦しみを終わらせることができると思います。そうすると抑圧していた時とは逆に、周りの人を少し自由にすると思います。
苦しみの力について考えています。ネットの画像検索で「マズロー」といれると階層化された三角形がずらーっと沢山でてきます。マズローの本意がどうだったのか確認していませんが、とりあえず彼が唱えたとされる欲求段階説の図です。生理的な欲求が満たされた後、社会的な欲求、そして承認への欲求が生まれていく。最終的には自分自身を超えるような欲求にいたる、と説明されます。これはいわゆる自己実現の理論として、会社の説明会であるとか、研修などにもよく使われます。組織の成員のモチベーションを高めるためにも都合のいいモデルとして転用されているのかと思います。
この考え方において、人は三角形の底辺部分から階層化されたピラミッドの頂点へと向かおうとするとされています。ですが、僕はこの三角形のスタート地点は底辺ではなく、頂点から始まると考えたほうがしっくりきます。その頂点では、人は一人です。世界との関係性をつくりあげながら、直面する苦しみに向き合いそれを終わらせることによって、その下の階層にある苦しみが浮かび上がってくる。苦しみは下の階層にいくほど、普遍的な苦しみになるのではと思います。その過程で、自分だけの苦しみから、普遍的な苦しみを他者と共有する存在になっていくイメージです。他者の苦しみを感じると同時に他者の喜びを自身の喜びとして感じることができる存在になっていくのではと思います。
孤立し、閉塞した自己から、世界とのいきいきとした関係性、相互性を取り戻しいくこと。波に飲み込まれた受動的な被害者の状態から波の力を使い自身が働きかける主体者になっていく。個人が自身の深い苦しみを自分のものとして向かい合い、それを乗り越えるとき、その回復は個人の内にとどまらず、周囲もまた回復に向かいます。
しかし、苦しみに向かいあう歩みは孤独です。他人ではなく自分が感じる、確かめ、この自分という個別性、特殊性にあわせて適切なアプローチを随時生み出していく必要がある。他人には自分がわからない。たとえ大まかな方向性を示すことができても、その方向性に一歩ずつ近づいていくために必要な調整は全て自分が考えださなければなりません。そして自分で動かなければ一歩も進まない。
社会は生まれてから死ぬまでの道筋と選択肢を用意しているようでいて、しかし実際のところ、個人という特殊性や例外性をもった存在が自身に向き合うという意味では、知らない土地に一人、裸で放り出されて全て自分の力で生き延びていくことが課されているのが実態であると感じます。
社会のなかでの大多数であるときは何の不都合を感じなくても、避け得ない事故、病気、障害などに見舞われ、すごろくゲームのような用意された道から外れたとき、あるいは自身が自身であることにとどまろうとしたとき、社会が抑圧的であることに気づくでしょう。自身を揺り動かすものを意識的、無意識的にさえ押さえつけ、自身に影響を与えないようにする。痛みや苦しみに対し、まずは抑圧し、無いものとしようとする態度です。
社会の今の常識的な感覚というものが実は既に抑圧的であるとき、私は一人の反逆者となります。個人がそのなかにある本当に深い苦しみを回復させていくとき、その苦しみに対して格闘する個人は多くの人を揺り動かします。反逆者の歩みは多くの人に評価されず、むしろ抑圧され、孤独です。
社会が既に発信しているメッセージ、価値、人のあるべき姿、幸せのあり方が提示されているところで私たちは生まれてきました。そのため個として歩むことはまた、自身になかに既に刻まれたその価値観、考えを脱していく作業にもなると思います。試行錯誤しながら、自身によって物事の価値を決め、世界や社会との適切な距離をもち、自分の歩みが続くために必要な環境を創りだし整えていく。
人と違う道を行くことによって、引き起こすことの結果が悪くても何の保証もありません。それは一種の危機状態です。しかしそのなかで今まで必要なかった慎重さや、戦略的な態度が醸成されていく。程よさの感覚、つまり現実感覚が研ぎすまされていく。すると気づくでしょう。何を危機と感じていなくても実は歩みだす前から危機のなかにいたのだと。フットワークが取り戻されます。
歩んでいくためには、適切な距離感が必要だと思います。私という苦しみのありかたが救われていく、回復していくことを決めるとき、私は反逆者です。そして私が生きている場所とは荒野です。
社会はそのようなメッセージは公式に出さないと思います。あくまで人と人が支え合い、理性と善意によって社会は良いように維持されるはずであり、そうでなければならない。間違っていることがどれだけ多くなっても、責任あり、善意ある人によって調整されるだろう。そう思わされ、またそう思いたいと願うでしょう。それを否定すると、自分自身を危機のなかに投げ出さなければならないからです。
しかし、それでも自分を救うために非暴力の反逆者として歩む人はいます。なぜでしょうか。苦しみが認識されているからだと思います。社会が既に提供しているもの、提示しているものでは割にあわない。もはや救われない。我慢をこえる苦しみがあるのです。
しかし、逆に言えば苦しみによってはじめることができます。自分のやりたいこと、といったことを裏返すと、それは自分の苦しみを救おうとしている行動だとみえてこないでしょうか。何かの達成はその人の実存的な苦しみへの向き合いの結果として生まれたものではないでしょうか。何かにかけるエネルギー、努力というものが何も無いところから意気込みだけで生まれてくるものでしょうか。そうではないと思います。
自身の苦しみを背景とし、自身の喜びがある。自分のなかの前に進んでいく力の根源は、苦しみにあり、喜びもまた苦しみを背景としてある。今うまくいってることに余計な苦しみを付け加える必要はないと思います。しかし、閉塞し、どうにもこうにもならない状況にいるとき、こう考えることでそこを切り開いていく距離が取り戻されるのではと思います。
(「ドーナッツ・ラボ新聞」に寄稿したものを転載しました)