|
|
最新の記事
カテゴリ
タグ
ブログパーツ
その他のジャンル
ブログリンク
|
|
俳優の広田ゆうみさんが俳優でない一般の人を対象にした朗読劇をつくられている。一回その発表会に参加させてもらった。病気を押して発表会に演じにくる方までいてその動機の高さに驚いた。お客さんのためではなく、自分たちのための活動 だった。もともと同志社の企画の一環だったのが、自立した取り組みになった(たぶん)ということだったと思う。
朗読の前に、出演者の自分語りの時間があって、もっと色々やりたい動機が出てきたとのこと。菅原直紀さんの「老いと演劇のワークショップ」に来ていた参加者のなかにも前回のワークショップを一度体験し、まだやりたいからやってきた方がいた。
火がつきさえすれば、さらに表現をしたくなる人が多くいると思う。易燃性があるのに火がつかないのは、そもそも体験するところがないのだろう。自分にほどよい体験を提供するためには、自分が関われる環境にグラデーションが必要だと思う。役者か素人か。正社員かアルバイトか無職かみたいな、グラデーションの無さが着火を阻んでいる。グラデーションがあれば、人は本能的に適切に選び、好きに体験する力があると思う。
菅原さんのアプローチがいいなと思う一つは、認知症の老人と関わるという必然性を人に提供するところ。「演劇」をすること、「演技」をすることと自分が関わりを持っていると思っている人は少ない。さあ演劇をやりましょうと呼びかけて来る人は少数だ。そこに、演劇をやるという必然性を提供してあげる。それで糸みたいな細さだった関わる通路が大きくひろがるわけだ。
VTRで認知症の奥さんを介護する岡田さんの話しが紹介される。ご飯をあげたのに、食べてないといいはられる。ここに食べた後の皿があるといっても聞かない。介護するほうはやるせなく疲れる。そこからの転換は、自らも「ボケ」を演じる、同じ水準にたってみるという関わり方でなされた。
「さっき食べたじゃろうが。これが普通。・・・さっき何を食べたかなあ わしゃ忘れたがあ。・・・そしたら返答がかえってくる。ぼけを演じる。同じレベルというか、つきあいをする。今はだいぶ上手になりました。」(岡田さん)
この発見をした瞬間は、嬉しかっただろうなと思う。長い間の気持ちの通じなさに苦しまれてきた分余計に。
演劇的な視点、関わりが切実に求められている日常がある。そこで人は演劇と関わることができる。
あと、言葉のハードルの高さがある。演劇、ダンス、詩、をやりましょうというと特別なことに思われる。やるとか言ったら奇異な目にさらされそうな感覚になってしまうのだろう。京都自由学校で毎年開催されていて10年目になっている「詩と語りのワークショップ」は、今は「言葉と気持ちのワークショップ」という名になっている。
僕も「特別な言葉」は言わないですむなら、言わないでいいんじゃないかと思う。 目的として使われる治療とか、啓発とか、成長とかいう言葉も。
(特に成長って誰もが憧れ陶酔する言葉だと思うけれど、取り込まれると劣等感の源にもなる。現実に遭遇して、行き詰まり、そこのつまりをとることを生きている間ずっとしているわけで、成長なんて大層に言わなくても、「つまりをとる」でいいんじゃないかと思っている。体のつまり、気のつまり、関係性のつまり等々のつまりをとる、と。成長は今の自分の強い否定であるような変身願望であるときもある。その否定があると状態はかえって固着化したり、ひずみをもちやすいと思う。)
公演してお金をもらうことが目的ではなく、自分たちのためにやる演劇については、「演劇的な手法を使った」とか、「ゲーム」とかいう言葉で表せばいいかもしれない。
ヴァイオラ・スポーリンの本を読もうと思う。 ーーー スポーリンはもともとセツルメントワーカー(社会福祉士)を目指していた人で、1930年代にシカゴで移民の子供たちに演劇を教えていました。しかし子供たちの中には英語の読み書きができない子も多く、それぞれが抱える文化背景も異なるため、既存の指導法では限界があったのです。そこで「遊び=ゲーム」の要素を採り入れて試してみたところ、子供達はのびのびと表現し始めたのです。
言葉よりも直感と身体表現を重視したこれらのゲームには身体表現を高める、集中力を養う、信頼関係を築くなど、多くの効果がありました。 http://spogame.exblog.jp/16337104 ーーー
広い意味での演劇はたぶん、人と人との関係性をつなぎなおし、再構成する力をもっているだろう。今ある人間関係もそうだし、新しい人たちとの関係性、老いと若き、大人とこども、文化の違う人たちとの関わりも。演劇のもつ可能性を自分が使えるところまでたぐりよせたい。
|
|
|