|
|
最新の記事
カテゴリ
タグ
ブログパーツ
その他のジャンル
ブログリンク
|
|
本当に思っていることを話すとき、場は揺れる。日常生活で、本当に本当のことを言うと、それは大抵場にそぐわないものではないだろうか。周りの人が困惑する。それはわかる。あたかも意地悪か、困らせるためにやっているようにも感じられるだろう。それは常識人なら言わない約束、それは反則だ、そんなこと言ったら身も蓋もないというような感覚も起こるだろう。そんなことを言う人に怒りの気持ちをもち、黙らせたくもなる。自分をこんな気持ちにさせたことに対して、責任をとらせたくもなるだろう。
だけど、そこで表現を諦めることで自分のどこかが死ぬ。張りのある感覚が奪われて、気持ちが目減りする。ぼんやりして虚ろになる。
生きていく責任は自分がとる。
どんな丁寧な言葉をつかっても、表現から他者に対しての暴力性を完全に除去することはできない。影響するということは、良かれ悪しかれ暴力性を持つということなのだから。
しかし、その不可避の暴力性を踏まえることによってはじめてひらかれる相手へのケアもある。
自分の言っていることに暴力性がないと思っている人は無自覚な暴力をふるっているだけなのだ。暴力性をわきまえないことは、大きな暴力だ。
生きていくとき、他者に与える暴力性を避けることができない。しかしそれを知った者同士には、今までなかった水準の優しさがひらかれると思う。
相手の生を尊敬し、そして自分が生きていくために対峙する。格闘技を全て否定することは、暴力ではないだろうか。そこでしか表現されないものを潰すことは。
あるルールを、作法を守る。相手もまた自身と同じだと理解する。お互いに我慢するのではなく、作法にのっとりお互いを解く。
それが一番したいことだと思った。自分の本当のリアリティを出す、それに対しては最も深いリアリティで応えてもらう。その時にエネルギーが充実する。生きる力が充填される。
意見は全く違っていた。でも本気のリアリティで応えてもらったと感じた時はそれが一番力をくれた。妥協としての同意などは何もくれない。本気に対して適当に答えられると疲れる。しかしそれを守るために適当にしたり、妥協すると、緩慢に死んでいく。出しどころ、相手、成り立たせるための責任は自分にあり、どこにも頼れない。できないから死んでいったというのは生きることに対して投げやりだったということだと思う。何であれ。
|
|
|