ーー前回のブログ更新、「やること」の続きです。タイトルかえました。--
先日、木曜日の私塾に行っていた。
そこで、マルクスの資本論1巻の内容を中心に芸術について、山田創平さんによる講義があった。自分では経済の本を手にとる習慣がないけれど関心がないわけではなくて、今回エッセンスをわかりやすく解説してくれるのはとても有難かったし、面白かった。
労働というところによって余剰の価値、儲けは生まれる。やりとりが等価交換なら、どこにも儲けは生まれないが、儲けているということは、たとえば1時間で2000円分の労働をさせて、1000円の賃金を払うことによって、その差額を資本家がとるということ。時給1000円というふうに言えばそういうものかと労働者は納得してしまう。そしてこの労働力、いかに働かせるかというところ以外に資本家に儲けるすべはないので、資本主義社会においては、いかにもっと労働させるかということが追求され、加速されていくわけだ。
私塾がいいなあと思うところは、皆が真剣に自分の考えるところを述べるところ。様々な意見が出た。その中で、非正規雇用の者は、もてるお金が限られているので、たとえ198円の牛乳を買うことが生産者を応援したり、世界をよくするほうにはたらくとわかっていても、105円の牛乳を買わざるを得ないのでは。どうしたらいいか?という問いが出された。
そこに思うところがあって、それ言おうか言わまいかと思っているところに、主催者の一人のブブさんが「米田さんはどうですか?」とふってくれた。
とても言いたいところだった。
198円と105円の牛乳を買うしかない、のだろうか?
社会が提示する選択肢はそれしかないかもしれない。もし自分や自分たちが何も選択肢を創造できないならば。
自分たちが創造するということを、まず全く一度も考えたことがなかったならば、それは創造者としての個人であることをその人は奪われていたということだ。
1 人の弱い立場のものに何ができるだろう?
2 自分に何かができるような気がしない。
3 何かをしても無駄で疲れるだけだ。
そんなふうに思うかもしれない。でもこれらは、ただのネガティブな考え方や問いか。いや、このなかにこそヒントがあると思う。1番目の問い。ここで主体は何らかの提示を受け、何がしかのあるべき姿に自分を適合させなければならないのかもしれないと思い、でもできないと思っている。2番目。自分の力が何かの変化をおこすにいたらないと感じている。3番目。徒労に終わることによって、今より自分が希望を失い、しんどい環境に移行すると思っている。
裏返せばここに人の求めが出ている。行きたい方向性が潜在的に存在している。この思考は既にいやなことをしている疲れの反映なのだ。疲れることをとる。それがその人のやることだと思う。どんな正しいことであれ、人から提示されてそのままやらなきゃいけないと思いこみ、そのことに強迫され、やることは関わり方として間違っている。強迫に動かされてはならない。疲れるだけで続かないし、いい結果もついてこないから。
強迫的に動かされていること、それは主体を失っていることだと思う。主体を奪われていることと主体をもっていることは、何らかの理由で嫌々魚釣らなければならないのと、自分で楽しんで釣ってしかも食べるような違いだ。食べることは全ての人にとってしなければならないことであるけれど、しかしそれ自体は楽しみでもある。食べることに加えて、それを得るための手段である釣りも楽しみとすることができる。
あるべき姿への適合に主体を奪われることで、疲れる。
2番目、自分が何もできるような気がしない。これも既に疲れている。こう思うこと、感じることがさらなる疲れを生んでもいる。逆に言えば、自分が何かができるような感じ、自己効力感を獲得していきたいと思っているのだ。何かをやらないことによって、エネルギーを保存する。それはそれでいい。必要なのは、エネルギーを使うがその使ったエネルギー分以上のエネルギーを得ること。ある人にとってはそれが趣味であったり、仕事であったり、何らかの活動であったりするのだろう。前に挙げた釣りも同じだ。主体性の象徴は狩人か。個人に必要なのは狩人にもどることだと思う。
個人は自己効力感を増やしていくことを求めている。
3番目も同じだけど、その人はエネルギーを使って何かをしたが、その結果前よりエネルギーの総量が減ってしまった。それはもうすまいと思っている。そして、今提示されていることに対しては、同じくエネルギーの総量を減らすこととみなしている。エネルギー総量を増やす何らかの運動が必要とされている。
以上でみてきたように、必要なこととは、主体を奪われず、奪われているのなら取り戻し、まず自分が生きていくことを確立すること。巨大な充電池のように自分をみなして、そこに自分のエネルギーの総量をためていくこと。もちろんこれは、使うことによってためられていく。活動しないことは、単なる保持か、あるいは少しずつのエネルギーの減少になるんじゃないかなと思う。食べるためにもエネルギーは必要なのだから、エネルギーの運用の仕方を覚えていく。エネルギーを増やしていくやり方が自分のなかで確立されていけば、自己効力感は増してくる。
やらされていることをやめて、やりたいことをやる。
エネルギーの増えていくことをやる。
自己効力感の増えていくことをやる。
これがやることだと思う。
ただ、人がそれまでの癖や習慣で構成されているなら、もちろんちょっと頭で覚えたことや考えたことをそのままできるわけではない。だから、そういうからだにしていくことが必要だ。
ある林業をされている方が、自然の場では必要な物をその場その場で生み出す体位が必要になってくるといっていた。簡単にいえば、山の現場でほうきのようなものが必要となったとき、手ごろな木の枝で用を足すといった具合だ。山の中で用意されたものは何もない。木の枝はほうきとして存在しているわけではない。しかし、その機能、その潜在性を見る主体となる。世界と対峙し、自分の必要なものを見出していく目をもつ。それは疲れを生むことだろうか?いや逆に世界の中には様々な可能性が眠っていてそれを開発していくのは楽しく、そしてその体位を身につけていくことによって自分の出来ることは増え、自己効力感は増大していくのだ。
初めて話しを聞いたとき、体位という言葉が珍しかったけど、姿勢というより更に踏み込んだ表現なのだと思い、僕も使わせてもらおうと思った。
主体性を取り戻すこととは、自分自身のエネルギー総量の増加、その運用に責任をもってすすめていく主体となることだ。この時、あるべき姿への適合に強迫されていないので疲れない。主体性を取り戻していっているはずなのに疲れるのなら、それはやりたいことではないのではないかという点検は必要だろう。試行錯誤で世界に対して適正な体位を整えていく。自身のエネルギー総量と自己効力感、そしてできることを増やしていく自分のからだにしていくのだ。
198円と105円の牛乳の話しに戻ろう。
コンビニで提示されているのはその選択肢だけかもしれない。自分がその選択肢しか選べないことを残念に思ったとしよう。情報を集めれば、あるいは人とのつながりをさがせば、いい牛乳を自分の買える範囲のお金で手に入れることができるかもしれない。さらに、何か自分がつくっているものがあれば、コンビニではお金で交換できないが、誰かがいい牛乳と交換してくれるかもしれない。
コンビニはお金でしか交換しない。バイトの店員もそこで自分の判断や融通をきかせたりできる余地がない。もしそれが社会全体に敷衍されてしまうなら、それは人から選択肢を奪うことであり、強制なのだ。その強制を受け入れてもいいだろうか?冒頭の話しで、コンビニの値段には儲けが入っている。一方、理想だが自分たちのなかで等価交換でやりとりが行われるなら、搾取的に労働させられることなく、それを得ることができる。牛乳と何か自分がつくったもの、自分の仕事、作品などを交換することもできる。自分たちで自分たちの生活全体のありようを創造し、決定することができるなら、どのような仕事のあり方も一方的なものでなければ成り立つ。
しかし、そんないつかの理想の環境の実現は2次的な重要性ぐらいしかないし、単なる方向性だとも思う。平和という言葉が方向性であるみたいに。しかし方向性として明確にすることは意味があると思う。世界平和が達成されるのがいつかわからないからと言って、方向性としてイメージももってなかったら、そちらに近づいていく力はより弱いものになるだろう。それに世界がどうであろうと、自分たちの周りから平和にしていくことには変わりはないし、それが結果として周りも含めての平和になっていくのだと思うから。
さて、この方向性を一言で言うなら、世界を自分たちに取り戻していくことと言えると思う。
もうひとつ言いたいのは、もし自分たちの融通がきかせられる環境を自分たちで創造していればあるはずの選択肢、自由さ、ほどよさ、出来ること、そしてそれらによる恩恵が今奪われているということだ。それは同時に、自分たちで世界を創ること、木の枝をほうきとみたてるような、世界に存在する様々なものと自由に関係を取り結ぶ態度、世界と自分の可能性を自ら開き、発展させていていく体位も奪っていこうとしていると思う。世界のなかで直接的に自分のできること、関われること、自分の裁量がなくなっていけば、その分人はそれまでの関係性からえていた感覚を失い、他の者への共感、そして生きる力の基盤をせばめていく。このようななかで、個人はより疲れて、自己効力感やできることを失っていく。自らを回復させ、元気にしていく主体性やそれを可能とさせる環境や媒体を忘れ失い、誰かによって作られたシステムに嫌々従わされる方向に流されていくと思う。それは進行していると思う。
しかし、逆から考えればそれは利用できる。
お腹がすごくいたい。あるいは体の調子がすごく悪い。今苦しくて、今疲れている。そんな人は、ちょっとした緩和でも気持ちいい。ほっとする。それでいいのだ。世界を取り戻していくということは、大きなことから始めるのではない。一番小さなこと、自分自身さえ気づかずにいたような小さな自分の求め、そこから始めていくのだ。自分たちの気持ちよさ、自分たちのいい感じ、自分たちの裁量でできることを少しずつ増やしていく。それをすすめていく。もちろんこのとき、何か自分と離れたことをやってはいけない。自分という充電池を満たすことのなかで、共に、あるいは一人でもやっていけることを見つけやっていくのだ。世界のなかで自分の裁量を増していく方向性で。
元気になっていくことをやっていく。それが基盤だ。そして世界をとりもどしていく。ただそれはもう既にあるものではなく、たぶん山のなかでほうきを探すように、あるいは山の中でハンマーを探すように見つけていくのだ。既に準備され用意されたものから選ぶだけでなく、世界との関係性を開き、自ら選択肢を創造していく体位で。