
今自分の周りで関わりをもらってる方々は、それぞれに何かしらの新しいものやあり方を開拓しようとしている人たちだなあと思います。
誰に頼まれたわけでもなくて、それが直接収入に結びつくことでなくても、自分で満足するようにやっている。それはしかし滅私的なものでも、元気を減らしていくものでもなくて、それをすることによって、新しい刺激や世界との関わりを得たり、自分を調整できたり、むしろ元気を得れるように工夫されているように見えます。たとえ一時的にしんどくても、周りとの関係性を育ていたり、環境を整えているので結果的には自分が元気になれる基盤をより安定させたり、拡げ、整えられていたりしている。
誰に頼まれるわけでもないそのような行為、行動が、自分の潜在的な力を掘り出すものだったり、自分の可能性や個性を生かせる環境を創り出していたりしていると思います。この自然な、多分本能的と言っていいような創造的行為のなかに、学びというものも位置づけられるはずと思っています。
しかし学びという仰々しい言葉が出た瞬間に、何か特定のスタイルが無意識にイメージされ、自分がふっとんでしまって、良い子といわれる子が我慢して勉強する、一生懸命辛い勉強をするようなかたちで、自分もしなきゃいけない、自分の出来ないことがまずあって、それを克服したらどうなるのかというイメージもないけど、マイナスはとりあえずゼロにしなければいけない、「自分」に勝たなければいけない、学びというのはそういうものだ、みたいなのに自分もふくめ、案外誰もがとりつかれているような感じもします。自分のなかで先に進もうとする何かに、プロセスを求め、展開しようとする何かに耳を澄まし、寄り添うのでなければ、とたんに元気や関心や持続性はすっと向こうにいってしまうのに薄々気づいてないわけでもないのに。
学校にいって学ぶ、みたいに、何か日常とはなれたところに学びがあるのではない。いつか未来はそんな「学び」なんていう言葉は、もっと違う当たり前の営為や言葉のなかに、その一部として回収されて消えていくんじゃないかと思ったりします。
学びということの前に、まず自分に戻ること、我にかえることが重要だと思いますが、じゃあ自分を取り戻すまで学べないのか、というところでとまっても仕方ない。今の「自分」でありながら、同時に自分を取り戻していく、主体性を取り戻していくための基礎となる要素は、それぞれの個人がそれぞれに直面している「切実さ」だと思います。
生きるというのは、どちらかというと、「とどまること」だと思います。その体でとどまること、その種でとどまること。同じ営みを繰り返すこと。そしてとどまろうとするけれど、どうしようもないときだけ、変わる。(変わるというのは、いなくなるっていうことも含めて。)もともとの性質として保守性が優先している。
その保守性の優先が変わるには、そこにとどまることのほうが生きるのに不都合になる時だと思います。自分のなかに抱える矛盾、違和感が大きくて、とどまるのは割りに合わないとき、初めてそれをどうこうしようとする土台が整ってくるのではないか。
マズローの考え方から、また考えてみるなら、生理的欲求が充足されたところに、社会的欲求の充足の希求が生まれる。一つの段階の欲求が満たされると、次なる段階の欲求が生まれ、一つ一つの段階の充足は、やがて自己実現、自己超越への希求となるとされている。人間が本来的にそういうふうに移行していくものだ、ということなら、本来的に人間は層の異なる矛盾、苦しさの上に成り立たされていて、何かの段階が満たされると新たな矛盾、苦しさが浮かび上がってくる。
常に人間は自分に圧迫を加える矛盾や苦しさの上にいるので、それを再組織化、再編する希求もいつもある。なので、その時その時の自らの生きる苦しさの上位に来るものつまり「切実さ」に対して開かれている。それに対応し、変化することができると思います。それが学びというかたちにもなっているのだと思っています。
矛盾がある限り、尽きることのない衝動という意味では、学びの衝動は生きている間を通してあるものになると思います。苦しさが源泉として生まれてくるという考え方がネガティブに過ぎると受け止められるかもしれませんが、お腹が減って苦しいのが満たされれば、心地よい状態が生まれるように、生まれてくる矛盾に、苦しさにそのたびに対処してあげれば、(冒頭に紹介したような人たちが僕はそうだと思うのですが)、ちゃんとその分だけはより心地よく、より充実した時を過ごすことができるようになるのではと思います。

個人通貨ゆいまーるの通信誌「ゆいまーる通信」に載せた文章を転載します。
ゆいまーるは荒岩えんかいさんたちが始めた個人通貨で、これを使って日本円を介在させない物々交換ややりとりをおこなっています。ゆいまーる通信は、荒岩さんが毎月出している通信誌で、催しものの情報やエッセイ、俳句などが掲載されています。
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4月から小さな学校を鞍馬口ではじめます。
現在はトリペルというカフェの日替わり店長や、
知的障害のある人が共同で住む家での生活のお世話のバイト、
そして田んぼと畑をやっています。
中学校から不登校になったり、そのころの出来事のフラッシュバックに
その後もやられたりしながら、色々できないことや足りないこと、
欠けてるところが多く、周りの人のように豊かな人間性があるわけでもない
この自分がどうやって生きていけるのかぼんやり探して生きてきました。
人間は、自分はどうやったら変わっていけるのだろうと思いながら、
大学では臨床心理学科にいったり、四国遍路をしたりするうちに、単発で小さな
催しやイベントの企画をするようになり、今にいたります。
臨床心理学では、カウンセリングの際にカウンセラーは相手がもっている
自己治癒力や創造性を活性化させるために寄り添うものとされています。
カウンセラーがなおすのではなく、その人の中にあるものが自分から
現れ、活性化されてくるように、やりとりのなかで関係性を育て環境を整えます。
自分を変え、再編していく自分でも知らない働きが
自分の中に内在していると知れたのは重要でした。
でも、人はカウンセリングルームの外でも変わっていくんじゃないかと思い、
先輩の卒論発表で知った四国八十八か所巡りをして、
その後四国遍路をしたりし終わった旅人たちにインタビューをしました。
旅のなかにカウンセラーや治療者はいません。
しかし、職を失った人、あるいはこれから職に就く人、
定年を迎えた人たち、学生になったばかりの人など
これから新しい環境で生きていくことを求められる
転機にたった旅人たちに話しをきくと、彼(女)らは、
旅のなかで古い自分や癖が整理され、それに奪われていた
新しい環境で生きていける活力やあり方を獲得していました。
さらに詳しく話しをきいていると、彼(女)らが自分では
意識していないけれど、その旅のあり方、旅のなかでしたことは
あたかもその人それぞれが自分に必要なことを自分のために
するようなことでした。そしてそのプロセスをすすめていって、
僕が話しを聞いた時のその人になっていました。
人間が自分に必要なことをして変わっていくためには、
治療者や先生が必ずしも必要なのではなくて、その人のなかに
あるもののプロセスがすすむのにあたって
適切な環境と媒体(ここでは旅)さえ調整できれば、
変化が必要な人は自分でも意識せずに自然に変わっていく。
そう思うようになりました。
僕の関心は、心の中より環境や社会に向いていきました。
どうやったらそれぞれの個性や障害をもった人が、
自分に適切な環境や媒体を調整することができるのか。
そしてそれを持続的に維持することができるのか。
その人にとって必要な環境、人間関係、やりたいことは
それぞれです。そして他人にはその必要性や感覚が
つかみきれません。自分だけが自分のまだ意識化されて
いない求め、動きだそうとしている創造性に対して、
わからないながらもあっちかな、こっちかなと
だんだんと寄りそっていくことができます。
他人を自分の思うようにさせるために
相手に求める「主体性」ではなくて、
自分にかえり、自分のなかで、あまり光を
当てられることなく、評価もされずほったらかしにされていた、
自分、その本来の主体性を取り戻して、それが持っている
可能性を開いていくことが必要だと思います。
その主体性をだんだんと取り戻していくとき、
自分に何が必要なのか、何をしたらいいのかが
だんだんと見えてきて、元気と自分を育てていく
力も取り戻されていきます。
自分の足りないこと、欠けていることを、
人や周りとの関わりのなかで補うことはできます。
また足りないこと、欠けていることは実はその根が深いほど、
危機でありつつも、そのことによって自分が動かざるを得なくなって、
何かを変えていかざるを得ないところにもっていってくれる
原動力であり、それを満たすことが結局は自分の深い喜び、
欲しかった喜びにつながっているのではないかと思います。
自分にとって必要な環境、適切な環境は自分の部屋のように、
自分で調整し、働きかけることによってそこに生まれてきます。
では自分の部屋の外は自分が関わりもなく、働きかけることも
できないでしょうか。そして自分の部屋も結局は、他人との関わり
やその同意のなかでそれが自分の部屋として許されているに
すぎないのですが、どう守ることができるでしょうか。
自分の部屋を存在させている部屋の外は他者が関わり、
他者がつくっている空間です。でもそれは逆に考えれば、周りの
協力や方向性や思いの一致があれば、自分の自由や
出来ることは創造されるということです。
安全だと思う自分の部屋のなかの自由も、侵食される可能性もあり、
その多様性にも限界もあります。自分の部屋が世界にならないと、
必要なものが全て自分の部屋の中で調達することはできません。
だからまず小さく世界をつくっていきます。
自分が育っていく環境、多様性をもった個人が、
ライフスタイルの違う個人が生きていく環境を小さくとも共に
つくっていく。その働きかけが自分と部屋の外を同時に変えていきます。
ちょっと変えれば変えた分だけは、自分に心地よさや自信が戻り、
仲間との関わりが生まれます。
大きな世界や社会をいきなり変えることができなくても、
自分たちを幸せにするためにまずそれぞれがそれぞれの場所で
小さな世界をつくっていけます。小さな世界のつぎはぎ、
その重ね合わせはやがて大きな力になっていくかもしれません。
でもそれより、まず自分たちが心から満足する環境、
自分たちが育つことができる環境を小さく、できるところを
着実に現実的につくっていくことのほうが重要です。
自分を見失ってはいけない。
それぞれの人がそれぞれであることができる豊かさために、
世界や主体性を自分たちのほうに取り戻していく行為
つくっていく行為それ自体が、自分や周りに信頼と元気を
とりもどしていきます。
だから何も心配せず、疲れ果てることをせず、
それぞれに淡々と自分たちが生きる小さな世界をつくり、
ひろげ、重ねていけばいいなと思います。
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Facebookの投稿の転載です。
(リンクが直接貼れて画像もでたり、投稿した内容について話しができたりするので、最近はもっぱらFBで書きたいこと書いています。)
ニートひきこもりJounalひきこもりの当事者が、ニートの日本での定義、イギリスでの定義、支援機関、学術論文(英語も)など広い範囲をサポートしながら、それぞれの情報を出典つきでまとめている。「問題を解決した当事者」としてではなく、問題は問題のままで、本人が困っていることもそのまま書いている。
すごいなと思ったのは、専門家や人がなんといってようと、自分は自分の感覚にとどまっていながら、しかし情報や調べたことは詳しく他の人がシェアできるかたちで提供しているこの分け方。本当は研究者とかが当事者であるというかたちをとってやってる実験なんじゃないんかなと思うほど。
ともあれ、ひきこもりは変わらないし、将来の不安をかかえている。でも調べた情報や経験を誰もがシェアできるかたちにしていることによって外部、世界との循環がおこっているから、いずれ外から何かがやってきたり、淡々と続けているこの編集作業とシェアの継続が著者自身に何かを起こす気がする。
ニートひきこもりに対する支援という社会的意義もあるけれど、ニートひきこもりという分野にとどまらず、これは何かの当事者の自助としての活動や工夫が、公共性を帯びるかたちにできること、そしてそのことによって当事者が誰かに言われたやり方を自分に強制させたりせず、自分のあり方、自分のやり方で外部、世界との循環をとりもどしていく事例だと思った。
著者は苦手なことや出来ないことがあるけれど、この世界との循環があれば著者が出来ないことを違う誰かが著者に抵抗がないかたちでサポートすることもできるはずと思う。誰かが出来ないことはそれ以外の人の出来ることの重ねあいで補うことができる。工夫と調整があれば、その活動のせいでエネルギーを減らしたり、疲労を蓄積することなく

先日、かぜのねに行って、集まっていた人たちと話した。冷えたさくらんぼがシェアされていていっぱい食べた。
べてるの家の向谷地さんは、日本の福祉制度は当事者によってつくられてきた、と書いていた。切実な自助は公共性につながっていくと思う。切実な自助は、だれも認めてくれないようなところから始まる。
ムツゴロウさんが、その著書で自分は自然とは保守性であると思う、と書いていた。保守性とは何なのだろうかなあと思う。大きな病気や事故等をした人が変化する話しがよくある。自然農の川口由一さんも農薬で体を壊して、その後自然農の方向にいったり。創造の病、というのもあって、大きな仕事を後にする人が病気をおこすことがあるともいわれている。
創造の病というほど行かなくても、日常的な身体の最適化の過程でも、風邪が身体のバランスをいったん壊し、より適する状態に再調整するようだ。野口整体の考え方では。片山洋次郎は、たとえ風邪までひかなくても、微妙な発熱状態がおこり、身体を変化させている時があるというようなことを述べていたと思う。
保守性とは留まろうとすることだと思う。一休は、「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休(ひとやすみ)雨降らば降れ風吹かば吹け」とよんだという。うろじは煩悩の世界、むろじは悟りの世界とネットの解説には書いていたけれど、一休にとって生は、自意識が生まれ、そして消えていくまでの一時的な留まりととらえられていたのだと思う。
生というものが、そもそも留まりであって、保守性が強いのは当然で、しかも変化がおこるときに、内省で変わるというよりは、物理的な、観察もできるような激しいバランスの崩され方がされて変わってるということ。それだけ保守性が強いのだから、新しいことなんかそうそうできない。それができるのは、もう既に現状ではどうにもこうにもやっていけない、前に出るしかない切迫性、切実さが必要なのではないかと思う。
そして自助でなければ、力は発揮されないと思う。生きるものの力というのは、そういうふうに流れるものだと思う。他人を中心とした意味のある奉仕はない。あるようにみえても、それは自分の存在をより底から救うための自助なのだと思う。
ガンジーの言葉、「あなたの行う行動が ほとんど無意味だとしても それでもあなたは それをやらなければなりません。 それは世界を変えるためではなく あなたが世界によって 変えられないようにするためです。」も、自助につながる。自分をより根底的な層から救うためにその行為が必要なのだ。
かぜのねできかれた。「ある人が自分にとってそれほど重要でないこと、あるいは相手するのが少し疲れるようなことをします。それに対して、相手の望むように対応することは、自分の社会的地位や安全を守るための自助かな?」
自分を助けていないとはいえない。でも疲れてしまう。無理になり、それが続けば破綻する。というところで、できる範囲の対応はしているが、根本的な解決は試みられていない。まあ大抵そんな根本的な解決なんてなかなかできないので、余裕があれば余裕を消費をして対応する。だけど、切実な水準まで追い込まれた人はもう余裕がない。何だろうが、前に出るしかない。変えていくしかない。起こることは誰のせいにもせず、自分で引き受ける主体性が生まれ、良いことやってるからあなたも協調的になりなさいという態度もとらない。誰の承認も必要としないその主体性が生まれたとき、その人は自分の欺瞞から解放される。他人を異文化として受け止めながらやりたいことをやっていく。
切実さを端緒とした創造的な自助。
その主体性は、自分をエンパワメントしていく。欺瞞がないから、やりたいことはそのまま自分を元気にしていくことに直接つながっている。主体性を取り戻すことが必要なのは、自分で自分を回復していくことが必要だから。この世界で生きていくときに、誰が何を言おうと何を認めまいと、したいことが直接はできない環境にあろうと何だろうと回復をすすめていこうとする自律性は本来生きものに備わっていると思う。
既にあるものにもはやしがみつけず、新しいものを創造していくしかないところにいる人たちがいる。あるいは多くの人にそのような時がおこる。切実さのなかで保守性は破綻して、新しいものを創造していくことが生きるものとして強制されてしまう。それぞれの場所にいるそれぞれの人が、切実さに向き合わざるをえず、創造的な自助をしていくとき、それが世界にグラデーションと重層性をつくっていく。

前は興味があったり、やれたりしていたことに対して、関心がなくなっている状態がまだ続いている。戸惑いもあるけれど、新しい状態と思ってこれを普通にして組みなおしていけばいいんかな。
アフリカに行った人類学者の人のマンガをうちの1階で預かっている。
魚喃キリコの南瓜とマヨネーズが本棚から出ていたので手にとって読んだ。
音楽で食べていこうと夢見る男と彼を食わせる女。女はしかし前の男ハギオのことが忘れられない。そしてハギオとまた出会う。以前適当にあしらわれて堕胎までさせられて捨てられたけど、やっぱりそちらのほうへいく。
バイト先の同僚に言われる台詞。
「そんであんたも 今のそいつを好きなんじゃなくて 過去の自分へのために 今のそいつと会ってるんじゃない?」
最近、人はまるで鎮魂をするように生きていると思う。
生まれてから、またそれよりもっと前の過去からの背負ってきたものに対して。それらに向き合わなくても生きていけられるし、向き合おうとして機会なくすぐ向き合えるものでもないけれど。しかし鎮魂しようとしなかったら、それらに向き合うことをさければ、それらは荒ぶって、コントロールはそちらに奪われてしまう。結局意識的にやらないにしても、状況や身体が無理やりそれを遂げようとするようになってしまう。結局逃げられない。
魂の存在を言いたいのではなくて、鎮魂は態度のあり方、出会うものに向かい合うあり方のたとえ。
生きていることが、既にあるもの、起こるものを整え、鎮魂していくことだとしたときに、僕は物事が適切な位置に落ち着く気がする。
自己実現とか。
人は自分の可能性を十分に発揮される状態になるべきなのか。
発生してしばらくして殺されたり、病や障害によっていわゆる自己実現していく可能性を最初から奪われているものもいる。きらきら光るものを目指していく時に忘れられるものもあるかもしれないけれど、自我を高揚させて動かそうとするものは、その後の落ち込みや燃え尽きとセットである気がする。
また人は、強迫観念や緊張から自分を自由にできたとき、世界や自身の潜在的な豊かさとつながりをもてるもの。「いい生き方をしなければ。幸せにならなければ。成長しなければ。」という強迫観念は望むその状態をかえって遠ざける。
自分のために、という考え方も、わかりにくい欺瞞をふくんでいて、自分をスポイルしていく。
鎮魂という方向性は、そこらへんといい距離をとる。ただあるものに対して、それを終わらせていくために必要なことをする。その結果、掃除されたように空気の巡りがよくなる。
人はどこにもいかない。発展や到達が生きることの根本的な不条理を変えることはない。けしかけるものは、強迫するものは、幸せをよびかけているように見せていても、それは大きな嘘だ。人や自意識は生の主体でもないのに。
鎮魂という態度は、また社会的悪に対する態度でもあると思う。憎んだり、起こっていることを否定したり、自分を卑小にさせられて、巻き込まれていくのではなくて、陰陽師の安部晴明が妖怪や菅原道真に対する態度でいく。毅然として、つけこまれる隙をつくらないが、憎むのではない。自分の位置と力を把握しながら、淡々と必要な手続きをおこなっていく。
社会悪が自分が生きている間に変わらないかもしれない。生きている間に、世界はどんどん悪くなっていくかもしれない。しかし、淡々と必要なことをして、自分とその周りの空気の巡りをましにしていくことは、いつでもやれることとして残っている。